私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

考えでなく「私」に意識を集中する

2015年09月30日 07時00分09秒 | 悟り
◇考えでなく「私」に意識を集中する◇

多くの方は、覚者たちも含めて、何か特定の考えに関して「こうだ」とか、「これが真実だ」等の主張をします。
中には、すべてオッケーだと言いながら、その一方で「こうだ」と何かを主張します。
そう言っているご本人には、その不自然さやひっかかりは何も感じないようです。

どうしてそれ程までに、不自然さや違和感を感じないで過ごせるのでしょう。

それは、そのような方々の意識のあり方に理由があります。
そのような方々は、考えに意識が向けられ、集中しているのです。
だから、自分が特定の考えを握り締めていることに違和感も感じないし、気づくこともできないのです。

考えではなく、「私」に意識を向け、集中して頂きたいと思います。

考えを握っていると、自ずとその考えを外に向けて主張したくなります。
主張しないまでも、心の中の「こうだ」という想いが繰り返し起こってきます。
また、それを誰かに否定されると、怒りも起こってきます。

「私」に意識を向け、考えを握り締めている自分、あるいは自分自身の姿に気づいて頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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悟りの道中と苦楽観の変遷

2015年09月24日 20時58分01秒 | 悟り
◇悟りの道中と苦楽観の変遷◇

今日は悟りの道中と苦楽観の変遷について書いてみたいと思います。
多くの方はご理解も頂けないでしょうし、むしろ反発されることでしょうが、何かピンと来られる方だけにお読み頂ければそれで結構です。

まだ悟りを知らない普通の方は、肉体的又は精神的な楽(快でもいいですが)を求めて生きておられます。
そのため、そのような方が悟りの道に入られるとき、多くの場合、生きることに関連して起こる苦と何らかの形で向き合うこととなります。
苦と向き合う訳ですから、苦しみを感じる訳です。
そして、その苦しみと向き合う過程で小悟(明け渡し等)が生じることがあります。

なお、このときに向き合うことになる苦は、生きることに関連した苦であり、まだ表面的で浅いものです。
この段階で一切皆苦を悟る方がおられると思いますが、それは生きることに関連した苦に対する理解です。
つまり、生きることは苦であるということを理解したに過ぎません。

この段階を経ると、多くの場合、一時的に楽に対する感覚や理解が前面に出てくる段階が訪れます。
その楽に対する感覚や理解があまりに魅力的であるため、多くの方は、その感覚や理解を掴んでしまい、そこに留まってしまいます。

この段階の特徴は、生きることに関連して起こる過剰な雑念が軽減されるため、智慧が利くようになることです。
しかし、この段階で得られる楽に対する感覚や理解に溺れてしまうと、智慧も鈍ってしまいます。
そのような楽に対する感覚や理解に溺れることなく、またそれを掴まない方だけが、先へ進んでいくことになります。

そのような楽に対する感覚や理解を掴まなければ、それ程時間を経ずに、その段階を抜けていくことになります。
そうすると、前面に出ていた楽に対する感覚や理解はなりを潜め、ものごとを淡々と観、感じるようになっていきます。
中には、苦楽や良い悪い等を含めた二元の考えは、すべてものごとの一面を捉えたものであり、全体で観るとニュートラル(中庸)であるということに気づく方がおられるだろうと思います。

しかし、仮にニュートラルを理解しても、それで終わりではありません。
ニュートラルの理解も、まだ途中なのです。

ニュートラルの理解や深い観照意識が目覚めた階層をさらに進んでいくと、依然として苦しんでいる自分自身の姿に気づくようになります。
ここに到達して初めて、私という存在の根本である苦(存在苦と言ってもいいです)に気づくようになります。

そして、最終的には、私という存在の根本が苦であること、存在そのものが苦であることを理解するようになります。
この理解が、本当の一切皆苦の理解です。

私という存在の根本が苦であるということが本当に分かれば、苦をどうにかしようとする迷いの衝動が停止します。
これが最終的な悟りである解脱の悟りです。

ザッと書きましたが、これが悟りの道中の苦楽に対する感覚や理解の変遷です。
なお、多くの方の場合、ニュートラルの理解や深い観照意識が目覚めた階層から根本的な苦である存在苦に対する気づきが起こるまでのいずれかの過程で、観るものは観られるものの悟りである大悟、及び、一切は私の考えであることを悟る空の理解を得ることとなります。


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楽に流されない

2015年09月23日 10時26分13秒 | 悟り
◇楽に流されない◇

私たちは直ぐに、表面的に楽な方、楽しい方に流されてしまいます。
自分の進路を決めるときもそうですし、仕事や何かの課題に取り組むときもそうです。
中には、如何に楽をするかばかりを考えている人もいます。

あなたは本当にそれでいいのでしょうか。
本当にそれで納得できているのでしょうか。
流され、逃げてばかり、また妥協ばかりの人生で、あなたは本当に納得できるのでしょうか。

楽という感覚は、私たちを迷わせる霧や雲のようなものです。
自分がどうしたいのかというあなたの本心は、そのような霧や雲に遮られたあなたの内面の奥深くにあります。

表面的な霧や雲に惑わされずに、自分はどうしたいのかというあなたの本心を見つめて頂きたいと思いま
す。
そして、そのあなたの本心の観点から、あなたの人生に取り組んで頂きたいと思います。
安易に楽に流されるのではなく、また苦から逃げるのでもなく、本心の観点からあなたの人生に挑んで頂きたいと思います。

どうか、あなたの本心に着目し、大切にして頂きたいと思います。

本心を大切にして人生に取り組むとき、あなたは大変さや困難を感じるだろうと思います。
苦しみや恐れも感じるでしょう。

しかし、「もう逃げない」と腹を括って頂きたいと思います。
覚悟して頂きたい思います。


本心が導く人生は、多くの場合、そんな特別な人生ではありません。
有り触れた普通の人生だろうと思います。
多くの場合、あなたが本心から取り組もうとすることは、そんな有り触れた普通の営みの中にあります。


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「いま」という幻想

2015年09月16日 08時22分44秒 | 悟り
◇「いま」という幻想◇

悟りの道中で、「いま」を捉えたような感覚や理解が生じることは確かにあります。
その感覚や理解を得た方は、「いましかない」とか、「いまが永遠に続いている」などと言ったりします。

しかしです。
その「いま」というのも、「私」の考えなのです。
「いま」と考えているのは、誰でしょうか。
「いま」を認識しているは、誰でしょうか。
そう考えているのは、「私」でしょう?

「いま」という感覚や理解にフォーカスするのではなく、刻々と営まれている「私」という存在の意識の活動や推移にもっと着目して頂きたいと思います。
起こってきた現象に対し、自分自身の内面でどのような反応や活動が起こっているのかについて、もっと意識を向けて頂きたいと思います。

また、「いま」を外に向けて主張している自分自身の姿をよく観て頂きたいと思います。
どうして「いま」を外に向けて主張しようとするのかをよく観て頂きたいと思います。
さらには、「いま」が本当に確かなものなのかどうか、よくよく検討して頂きたいと思います。

果たして、何かを取り上げて、それが「ある」ということができるものなのでしょうか。
「ある」という根拠はどこにあるのでしょうか。

敢えて「ある」と言うのなら、「何かがある」というより、その何かに対する「認識」があると言った方が自然ではありませんか?

そして、その「認識」そのものが「私」ではありませんか?

「いま」という幻想に囚われないで頂きたいと思います。


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自我の活動は線香花火の火球のよう

2015年08月27日 11時44分45秒 | 悟り
◇自我の活動は線香花火の火球のよう◇

囚われを握り締めた自我の活動の様子は、線香花火の火球のようなものです。
常に不安定に振動するように、ぶるぶる、ぐつぐつと活動しています。

何か現象が起こり、その現象に囚われが反応して感情、思考、衝動が起こるときの様子は、まさに、線香花火の火球が弾けて火花がほとばしるときの様子とそっくりです。

線香花火の火花は、大変情緒があり、美しくもありますが、自我の囚われが反応して感情等が弾け出す様は、多くの場合、とても見苦しく、哀れさを感じます。
本人もさぞ大変だろうと思います。

そのような囚われの反応に翻弄されてしまう営みから抜け出したければ、しっかりと「私」に意識を向け、囚われが反応する現場を直視し、それに気づいて頂きたいと思います。
気づけば、その囚われが根っ子から消失します。
そして、一度消失した囚われは二度と握り締めることは無くなります。

そうやって、自覚を続けられ、自分自身が握り締めている考え(囚われ)をひとつひとつ手放していって頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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※次回の講話セッション、個人セッションは8月29日(土)です(上のリンクを参照ください)
 (※29日の個人セッションの枠は既に予約で埋まっております)

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素直に自分を見る

2015年08月16日 22時29分37秒 | 悟り
◇素直に自分を見る◇

素直さ、これは悟りの道を歩むとき、とても大切なポイントなんだと思っています。

ものごとを素直に見る。
そして、自分自身についても誤魔化さないで素直に見る。

これがとても大切なのです。

起こってきたことがらに対して、自分の内面でどのような反応が起こり、何を感じ、何をどうしようとしているのかを素直に見て頂きたいと思うのです。

自分が毎日何気なしに繰り返している動作やくせについても、素直な視線で改めて見てみて頂きたいと思います。

例えば、ふっとタバコを吸おうとしたとき、最初にどのような感覚が起こって、それがタバコを吸おうとする思考や衝動に繋がったのかを素直な視線で見てみてください。

また、何気なく姿勢を変えたり、身体を動かしたり、身体のどこかを触ったり掻いたりしているとき、そこにどのような感覚や衝動が作用して、そのような動作に繋がっているのかを素直な視線で見てみてください。

そして、そのような素直な視線で、自分自身に起こっている感覚、思考、衝動や動作などを丁寧に見ていって頂きたいと思います。

きっと、何か気づかれることがあるだろうと思います。


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自分の恐れに気づき直視する

2015年08月15日 08時44分49秒 | 悟り
◇自分の恐れに気づき直視する◇

みなさん、何かをどうにかしようとして、あるいは、何かを維持しようとして、もがき続けておられます。
私には、みなさんのそのような姿が、何かを恐れ、逃げ惑っているように見えて仕方がありません。

何をそんなに恐れる必要があるのでしょう。
いつまでそうやって逃げ惑えば、何か妙だということに気づくことができるのでしょう。

いくらやっても、大差の無い同じようなことがらの繰り返しです。
もういいんじゃないでしょうか。

ここらで腹を括って、自分自身に意識を向け、自分が何を恐れ、何から逃げようとしているのかをしっかりと見て頂きたいと思います。

自分が何をそんなに恐れているのかを見極めてください。

何かから逃げようとしている自分自身の姿に気づいてください。


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やりたいようにやればいい

2015年08月12日 23時10分59秒 | 悟り
◇やりたいようにやればいい◇

悟りの行程をそれなりの地点まで歩むと、すべては完璧だとか、すべてニュートラルだということが腑に落ちるようになります。
そして、さらにさらに歩んでいくと、終わりに近い地点の付近で、一切皆苦ということが分かってきます。
つまり、最終的には一切が苦な訳ですから、何をやろうと同じなのです。

しかし、ここが肝心なところなのですが、すべては完璧だとか、すべてニュートラルだとか、あるいはすげて苦だと分かっても、苦しみは消えないし、分別等の思考や感情も消えないし、何かをしようとする衝動は決して消えないのです。
もちろん、それらが幾分薄くなることがありますが、決して無くなることはないんです。

繰り返します、何かをしようとする衝動は残るんです。
ここはとても肝心なところです。

だったら最初っから、起きてくる衝動のまま、やりたいように生きていけばいいということなんです。

どうして、これをやったらダメだとか、こうするべきだとか考えて、自分を制限し、縛り付ける必要があるのでしょう?


あなたのやりたいことは何ですか?

ぜひそれを素直にやって頂きたいと思います。


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悟りの行程と滅私の誤解

2015年08月09日 22時39分15秒 | 悟り
◇悟りの行程と滅私の誤解◇

悟りの行程に入られた方によく生じる誤解として、「私はいない」という誤解があります。
悟りの行程には、そのような誤解が生じやすい三つの通過点があるのだろうと思っています。

一つ目の通過点は、小悟のゲートです。
小悟のゲートを潜った際に、それなりのギャップを空けて囚われが減り、それに伴って自我が薄くなります。
そのときに、自分の自我が滅せられたような感覚が起こり、これが誤解や思い込みを誘発します。
この小悟に伴って誤解される方は、とても多いです。

二つ目の通過点は、大悟のゲートです。
大悟のゲートを潜るのに伴い、非常に深いただ観る意識(観照意識)が初めて意識の表面に出てきます。
その深い観照意識に初めて触れた際に、自我感覚の欠落感とともに、いわゆる「観るものは観られるもの」という感覚が起こります。
そのとき、どうやら大半の方は「自分の自我が滅した」と誤解してしまうようです。

三つ目の通過点は、自分自身である自我も含めて一切は考えであり幻であるという理解(空の理解)が起こるゲートです。
自分自身が幻であることが附に落ちてしまいますので、このときも、「自分の自我が滅した」と誤解してしまう方が多いのだろうと思います。
なお、この三つ目の通過点は、大悟のゲートを潜る前に通過する方と、大悟の後で通過する方がおられるのだろうと思っています。

悟りの行程において、「私」が滅せられることはありません。
自我そのもの、つまり私という意識がこの世界そのものなのですから、まだ世界があり、それが続いているのに、「私」だけが先に滅せられることなどあり得ないのです。

「私はいない」と言っているのは誰なのか、という簡単な問いかけについて考察するだけでも、その答えは簡単に見つかります。

「私はいない」、そう言っているのは、あなた自身でしょう?
そうではありませんか?


「私はいない」なんていい加減なことを言っていないで、そう考えている自分自身に意識を向けて頂きたいと思います。


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降参と受け入れの違い

2015年08月06日 09時22分54秒 | 悟り
◇降参と受け入れの違い◇

降参と受け入れは、小悟の悟りを引き起こすことがあります。
なお、小悟の悟りは恩寵等の言葉で表現される、比較的一般的な悟りです。

降参と受け入れは、いずれも小悟の悟りを引き起こすことがある点で共通していますが、実は両者の間には大きな違いがあります。
降参は逃げであり、消極的なのです。
これに対し、受け入れは前向きであり、積極的なのです。

降参は、まだ比較的幼い自我に起こる現象なのです。
まだ幼い故、どうしても困難から逃げてしまうのです。
逃げて逃げて逃げまくって、それからやっと、逃げは何か違うことに気が付きはじめます。
そして段々と、逃げてもどうにもならないこと、逃げられるものではないことが何となく分かっていきます。

私としては、受け入れは、おそらく、そう言った降参や逃げを嫌という程経験した後に、そうするようになっていくものなのではないかと思っています。
なぜなら、受け入れは、良い悪いだけじゃなく、どんな困難や苦しみも、それに向き合い、呑み込んで行くことですから。


また、降参で至る小悟と受け入れで至る小悟とでは、その後の歩みも自ずと違ってきます。
降参は何かから逃げてますから、何かに頼る強い執着心(囚われと言ってもいいです)が残りやすいのです。
典型的には、神や、真我や、不二や、根源等がそれです。

一方、受け入れで小悟に至った場合は、何かに頼る執着心も薄いので、降参で至った方に比べて囚われも薄くなります。
このような方は、一切は考えであり幻であるという空の理解にまで到達される方がおられるのだろうと思います。


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自分の目で自身を見る

2015年08月02日 10時25分34秒 | 悟り
◇自分の目で自身を見る◇

今日も基本的なことを書きます。
言っても言っても分からない方が大半でしょうが、一応書きます。


多くの方は、自分を見るとき、他の人の目を通して自分を見ます。
それで、人の目ばかりを気にしています。
人の評価を恐れ、人の評価に一喜一憂します。
いつもいつもそうです。
それしかありません。

そのような方に申し上げたいことは、こうです。

あなたには目が無いのですか?
どうして、自分の目を使わないのですか?
ちゃんと目があるのに、それをしっかりと使ってください。

他の人の目による評価よりもまず先に、自分の目で自分を見て、自分で自分のことを評価してください。

大人なんだから、それくらいできるでしょ?

他の人の価値判断ではなく、自分自身の考えに基づいて行動し、生きてください。


あなたの目にあなた自身はどう映っていますか?^^


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目の前の現実に取り組む

2015年08月01日 22時12分12秒 | 悟り
◇目の前の現実に取り組む◇

みなさんが取り組むべきは、みなさんの目の前に起こっている現実です。
この基本的なことが分かっておられない方がとても多いのだろうと思います。

多くの方は、自分の取り組むべき対象はたった一つ、自分の目の前に起こっている現実なのに、それしか無いのに、それをほっぽり出して、他の現実を求めようとします。
そのような方々は、他の人の現実や、自分の都合のよい理想を羨んでばかりいます。
そのため、たった一つしかない自分の現実は、いつも疎かなまま過ぎ去っていきます。

後にはいつも、相変わらず目の前の現実から目を背けている自分が残ります。

何かおかしいと思いませんか?

そのようなことをいつまで繰り返せば、気づくことができるのでしょうか?

あなたの取り組むべき対象は常に、あなたの目の前にあります。

よそ見をせず、目の前の現実に向き合ってみて頂きたいと思います。


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後悔に本心無し

2015年07月26日 10時18分23秒 | 悟り
◇後悔に本心無し◇

瞬間ごとに湧き起こってくる思いはすべて自分の本心だと言うこともできるのですが、いきなりそう言っても伝わりにくいと思います。
ですから、今日も少し視点を工夫して文章を書いてみたいと思います。


多くの方は、後になって後悔します。
いつもそうです。
分かっていても、いつもいつもそうなってしまい、悔いを残してしまいます。

後悔の内容はひとそれぞれだと思います。
あのとき、もっとこうすればよかった、
こうするべきだったのに間違った選択をしてしまった、
他の人を傷つけてしまった、
取り返しの付かないことをしてしまった、
などなど、本当に様々だと思います。

中には、悔やんでばかりいる方もおられるのだろうと思います。

しかし、私としては、そのように後悔している方に申し上げたいことがあります。

それは、
「そのように後悔していることは、あなたの本心ですか?」
ということです。
「あなたの一番大切なこと、やりたいことは、後悔ですか?」
ということです。

違うでしょ?

厳しい言い方をすれると、あなたは、後悔することで、あるいは、過去の自分の行いを理由にして、いま直面している現実から逃げているのです。
現実から目を背けているのです。

いつまでそうやって、目の前の現実から逃げるつもりですか?

あなたが本当に向き合うべき現実から、いつまで逃げる続けるつもりですか?

あなたの本心からいつまでそうやって目を背けるつもりですか?

そうやっている間にも、あなたの本心は置き去りになっています。

どうか、そのことに気づいて頂きたいと思います。

これ以上の後悔を重ねないためにも、後悔に溺れるのではなく、気持ちを切り替えて、目の前の現実、そしてあなたの本心に向き合って頂きたいと思います。

もう後悔なんかしてたまるか、絶対後悔しないぞ、という思いが湧き起こってくるかもしれません。


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考えを握ると慢が立つ

2015年07月20日 21時23分35秒 | 悟り
◇考えを握ると慢が立つ◇

このようなことは、言ってもなかなか伝われないというか、しょうが無いことなのですが、一応書いておこうと思います。

煩悩と呼ばれるものにはいくつかの要素がありますが、「慢」という煩悩は、苦に対する煩悩の次に根深いものなのではないかと思います。

「慢」とは、自慢の慢であり、自慢するような衝動や心の働きです。
優越感等も慢に含まれます。
どうしてそのような「慢」という煩悩が起こるのかと言いますと、それは何かの考えを掴んでいるからなのです。
本人が何か「これだ!」とか「こうだ!」という考えを握ると、必ず慢が起こります。
そして、「やったぞ」というような気持ちが起こるとともに、その握り締めた考えを外に向けて主張したくなります。
実際に主張が出て来なくとも、内面では「自分はそれを持っている」とか「自分は分かっている」等の気持ちが起こり、仮にそれを表に出さないように控えていても、しこった慢の雰囲気が醸し出されてしまいます。
(こんなことを書くと、お前(慧空)こそ、慢のニオイがぷんぷんするぞと言われそうですが、(^o^))

典型的な例として、幸せを感じている人や、充実感を感じている人は、ほぼ間違い無くそれなりの考えを握り締め、強い慢が立っています。
そして、そのような人は自分の得ているものを他に自慢しようとしますし、それにしがみつこうとします。
しがみつけばしがみつくほど、迷いは深まります。

では、苦しんでいる人は慢が起こっていないとかと言うと、そうではありません。
苦しんでいる人の多くは、その苦しみの原因である何か考えを握り締めています。
この場合の苦しみは、優越感等の反対である劣等感、欠乏感や絶望感を伴っていますが、これも慢の産物なのです。

おそらく、この文章を読まれている方の多くは、自分には当たらないと思っておられるのではないかと思います。
しかし、何かの考えを握り締め、慢が立っている人は、自分が考えを握っていることはなかなか分かりませんし、ましてや自分の慢に気づくことは殆どありません。
考えを握り締めるということは、人をそのように盲目にするのです。

どうか賢明な方は、自覚の観点から、ご自身のことを改めてよく観て頂きたいと思います。


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人からどう思われるかより自分がどう思うか

2015年07月14日 07時10分40秒 | 悟り
◇人からどう思われるかより自分がどう思うか◇

多くの方は、他の人の視線や評価ばかりを気にしていきているのではないかと思います。
他の人から悪く思われるのがとても怖いようです。
他の人の評価を恐れ、人の目ばかりを気にして行動しているその姿は、まるで奴隷です。

何をそんなに恐れる必要があるというのでしょう。
他の人の評価が悪くなると生きていけなくなるかの如く恐れてますが、そんなバカなことはありません。
どんな評価になろうと、ちゃんと生きていけます。

多くの方は、他の人の評価が怖いようですが、自分の本心に背くことに比べたら、そんな恐怖はどうでもいい程浅いものです。
自分の本心に背いてしまうことや、本心を見過ごしてしまったことで生じる後悔や悔いに比べたら、他の人の評価が悪くなってしまったことで起こる後悔や悔いなど、どうでもいい程軽いものです。

大切なのは、人からどう思われるかより、自分がどう思うのかです。
どうかもっと、自分の本心に向き合って、自分の本心を大切にして頂きたいと思います。


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