私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

信仰心と依存心

2015年04月24日 17時21分01秒 | 悟り
◇信仰心と依存心◇

ちょっと厳しいことを書きます(基本的にいつもそうですが、笑)。

信仰心と依存心は同じです。
自分の主体性や責任を投げ捨てて、何かに救ってもらおうなんて、虫が良すぎるのです。
そんな都合の良い話がどこにあるでしょう。
それこそエゴのなせる業です。

それに、あなたが縋り付こうとしているその存在は、本当にあなたを救ってくれるのでしょうか。
その存在は、本当に確固たる存在なのでしょうか。
その存在に縋り付いても大丈夫だという、何か確信か根拠がおありなのでしょうか。

盲目的にその存在に縋り付くのではなく、その存在が本当に確かなものなのかどうか、自分の目で確かめてください。

その存在に対する根拠は見つかりそうですか?

根拠や確証もないのに、あなたはその存在に縋り付いておられるのですか?

あなたのその姿は、ほらこれが大変有り難い仏様ですよ、どうぞ触ってくださいと言われ、有り難がって象の体をさすっている盲者の姿と同じです。

しっかりとしてください。
目を開けて、その対象をしっかりと見てください。

誰がその存在を認識しているのですか?
誰がその存在を絶対的で崇高なものとして奉っているのですか?

訳の分からないものに頼らないでください。
自分の責任を何か他のものに委ねようとしないでください。
自分の足でしっかりと立ってください。
自分の責任は自分が引き受けるという自覚と覚悟を持ってください。

何かに頼っているうちはどうにもなりません。


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自らの主張に気づく

2015年04月24日 13時22分07秒 | 悟り
◇自らの主張に気づく◇

私という自我(エゴ)は、直ぐに何かの考えを外に向かって主張しようとします。
実際に口に出して言わないまでも、心の中ではそう言った自我の主張がひっきりなしに続いています。
そして、その自分の主張(考え)が受け入れられたり、評価されると喜び、否定されると怒ったり、イライラしたり、落ち込んだりします。
延々とそのようなことを繰り返しています。

何か考えが起こってきたとき、衝動的にそれを掴んで主張するのではなく、一旦踏み止まって、その主張(考え)をよく観て頂きたいと思います。
また、その主張(考え)が自分の考えであることを自覚して頂きたいと思います。

そして、その主張(考え)や、その主張に至る自分の判断にどういう根拠があるのかを確かめて頂きたいと思います。
その主張にどれほどの根拠があるのか、確証があるのかを確かめてください。

「こうだ!」とか、「これに間違いない」とか、「これが正しい」とか、「それはダメだ」とか、「こっちがいい」とか、そういった主張のどこに根拠があるのかを確かめてください。

私たちは、ろくに確かめもせずに、また根拠もないのに、安易な主張ばかりをやっています。
そして、その主張に対する周りの反応に一喜一憂し、翻弄される始末です。

いつまで続ければ気が済むのでしょう。
いつまで翻弄されれば、気づくことができるのでしょう。

ただ衝動的に主張を続けるのではなく、一度立ち止まってください。
そして、その自らの愚かさに気づいてください。


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考えに対する主導権を取り戻す

2015年04月14日 16時05分33秒 | 悟り
◇考えに対する主導権を取り戻す◇

多くの方は、起こってきた感覚や感情、思考、衝動等の考えに同化し、ほぼ常に考えに呑み込まれたまま生きています。
その姿はまるで、動物かロボットのようです。
自分には理性があると思っているのかもしれませんが、考えに呑み込まれ、ただただ盲目的かつ衝動的に思考し、行動するその姿にどれ程の理性があると言うのでしょう。

自分自身を振り返ってみてください。
多くの方は外側ばかりに意識がいっていて、自分自身を振り返ったことがありません。
繰り返し、繰り返し、延々とただただ考えに呑み込まれている自分自身の姿をよく見てください。
そして、考えに翻弄され、考えに溺れている自分自身を救い出してください。

考えに対する主導権(主体性)を取り戻してください。
もうそれ以上、考えの言いなりにならないでください。

自分はどうしたいのか、自分の真意に気づいてください。
そのように、考えに溺れ続けたままでいいのですか?

その選択権は、常にあなたの手元にあります。
そのことに気づいてください。


私の上に考えを掲げ、その考えを崇め奉る人はその考えの奴隷です。
その考えがどのような崇高なものでも、それを崇める人は奴隷です。

神を奉る人は神の奴隷です。
真理や法に縋る人も、真理や法の奴隷です。

私たちは直ぐに、何か絶対的なものをつくりだし、あるいは見つけ出し、それに縋り付き、頼ろうとします。
そのような考えのどこに絶対性があるというのでしょう。
絶対だという確証もないまま縋り付くのはどうしてでしょう。

根拠も無い曖昧な考えに縋り付き、奴隷のように従属している自らの姿に気づいてください。

その姿は、人間の形に成形された彫刻を崇め奉り、熱心に拝んでいる姿とまったく同じです。

彫刻も神も、考えに過ぎないということに気づいてください。

彫刻にあなたの主導権を渡さないでください。


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どうして自分はそれをするのか

2015年04月13日 14時41分11秒 | 悟り
◇どうして自分はそれをするのか◇

多くの方々は、自分自身の行為について余りに無自覚です。
どうして自分がそれをしているのか、全くと言っていい程自覚がありません。

そのような方々は、自分がやっている行為について、いつも何かのせいにします。
本当は自分はやりたくないのだけど、それをやらないと大変なことになりそうだからしょうがなくやるんだ、とか。
やらなきゃいけないからやるんだ、とか。
やるのが当然だからやるんだ、とか。
みんなやってるから自分もやるんだ、とか。
誰かにやれと言われたからやるんだ、とか。

それが嫌なら、今すぐやめればいいんです。
学校も、仕事も、家族も、生きることだって、嫌なら今すぐやめたらいいんです。
やめたって何一つ問題なんてありません。
ほっぽり出せばいいんです。

でも、実際にはやめられないでそれをやってしまう。
これが多くの現実です。

どうしてやめられないのでしょう?
それが嫌なのでしょ?

どうしてもやめられないでそれをやっている自分自身に意識を向け、自分自身をしっかり観てください。

何か気づきませんか?


ある方は、こうあるべきとか、これが正しい等の固定観念に縛られ、ただ盲目的にそれをやっている自らの姿に気づくかもしれません。

またある方は、何かを失うことや、何かが変わってしまうことを恐れる余り、何かを守ろうとして衝動的にそれをやっている自らの姿に気づくかもしれません。

またある方は、自分がそれを嫌々やっていると思っていたが、それは表面的なことで、本当は自分がまさにそれをやりたくてやっていることに気づくかもしれません。

あるいは、さらに他の気づきが生じる方もおられるかもしれません。


あなたは、どうしてその行為をやっているのですか?


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一元という幻想

2015年04月12日 07時42分54秒 | 悟り
◇一元という幻想◇

どんなことがらも、それに囚われるとき、良い悪い等の二元性を帯びます。
一元もそうです。

一元も私が考えている考え(幻)なのです。
幻想です。
幻想ですから、それそのものには二元性はありません。

しかし、一元という考えを掴むとき、それは二元性を帯びます。
なぜなら、それが良いものと判断したから、それを掴んだ訳ですから。

真理もそうです。
愛もそうです。
どれもみな、幻想です。
それらは、それを掴まなければ二元性はありません。
ただ起こってくる考えであり、過ぎ去っていくだけです。

どんな尊い考えも、それを掴めば自我(エゴ)の肥やしになります。
掴んでいる本人には、それがなかなか分かりません。

一元も真理も、愛もそうですが、それらを掴んでしまう人は、それが考えであるということが分かっていないのです。

誰がそれを認識しているのしょう。

「私」です。
「私」が認識している考えであり、幻です。

では、「私」はどうでしょう。
今度は、あなたのその視線を「私」に向けてみてください。

一切は考えであり、幻想であると分かるはずです。


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ハートの蛇口を開いてください

2015年04月09日 12時50分55秒 | 悟り
◇ハートの蛇口を開いてください◇

私たちはいつも、自分の愛を出し惜しみします。
いろいろ条件や制限を付けて、これじゃあ愛せない、愛する訳にはいかないと思い、愛を制限します。
もう習慣やクセのようになってしまっていて、自分が制限していることも分からなくなっています。

ただ習慣のように制限するのではなく、ちょっと立ち止まってみてください。
そして、なぜ制限したり拒絶するのか、どうして制限する必要があるのか、考えてみてください。
ちょっと視点を変えるだけで、その対象に対する印象は大きく違ってきます。

その対象は、本当に嫌なものですか?
拒絶しなければいけないものですか?

あなたの愛は、いつも溢れ出そうとしています。
それは、どんな対象に対してもです。

あなたがその制限を少し緩めるだけで、あなたの愛は溢れ出します。
そして、ハートが震え出します。

さあ、あなたのハートの蛇口を開いてください。


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安易に肯定しない

2015年04月09日 08時00分13秒 | 悟り
◇安易に肯定しない◇

悟りの行程で、肯定が使われることがあります。
肯定は、許しや受け入れを促すからです。

しかし、悟りの行程の後半になるにつれ、肯定よりも否定が有効になってきます。
肯定だと、意識が緩慢になり、甘えや依存に傾きやすく、悟りが停滞してしまうのです。
安易な肯定は、内面にまだ曖昧でモヤモヤとしたものがあるのにかかわらず、それを誤魔化してしまうのです。

それに対し、否定的な視線は厳しくシャープなものとなりやすく、また疑いの視線を伴います。
このため、否定の意識の方が、自分が掴んでしまっている曖昧な考えやモヤモヤに対する追求が進みやすく、また安易な妥協も生じにくいのです。

悟りの道を歩む過程で、多くの方が魅力的で特徴的ないくつかの考えに触れます。
それらの考えは確かに魅力的です。
しかし、どの考えも、それが真実であると肯定できるものは何一つありません。
そもそものところ、一切は考えであり、幻想なのですから。

安易に肯定に傾倒しないでください。
すべてを否定するくらいの厳しさを持って、歩んで頂きたいと思います。


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悟りの終着点はありません

2015年04月08日 20時51分09秒 | 悟り
◇悟りの終着点はありません◇

悟りの終着点について主張する方がおられますが、それは誤解です。
そもそものところ、終着点なんて存在しないのですから、それを語ること自体ナンセンスなのです。

それにどういう根拠があるというのでしょう。
根拠も無いのにそれを主張する、自らの愚かさ、幼さを省みて頂きたいと思います。

あなたが主張するそれは、あなたの考えであり、幻です。
誰がそう考えているのしょう。
それを考えているあなた自身を振り返って頂きたいと思います。
そして、その考えを掴んでいるあなた自身に気づいてください。

あなたが口にしているその終着点は、あなたの考えです。


しかし、悟りの行程には終わりがあります。
何かを求めている自らの衝動に気づけば、それで終わります。
それは、何処かに到達したということではなく、衝動そのものの停止です。


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責任や原因を外に求めない

2015年04月07日 08時27分39秒 | 悟り
◇責任や原因を外に求めない◇

私たちは、何かあると直ぐに、責任や原因を外に求めます。
そして、「○○のせいだ」とか、「○○のせいでこうなった」などと言います。

それは、意識が外向きなのです。
外に依存していると言ってもいい。

そのようなことをいつまで続ければ気が済むのでしょう。
いつまでやっても、埒(らち)が明きませんし、切りがありません。
それに気づいてください。

あなたを中心とした、そのあなたの世界は、あなたの考え(意識)であり、あなた自身の現れです。
それは、誰のせいでもありません。
あなた自身の現れなのです。

あなた自身であるその世界と、真っ直ぐに向き合ってください。
そして、受け取ってください。

そんなに難しいことではありません。
その世界に対するあなたの意識や見方を少し変えてみてください。

起こってくる出来事や他の存在たちは、あなたの敵ではありません。
それらがやっかいなものだと思い込んでいる自分に気づいてください。
そして、受け取ってください。

受け取れば、終わります。


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社会への依存について

2015年04月04日 13時27分57秒 | 悟り
◇社会への依存について◇

私たちが持っている囚われには、社会や他者との関係に関連したものが多いです。
その中に、社会への依存が含まれています。
例えば、人は一人では生きていけないなどの思い込みがあります。

社会への依存心が強いため、社会から阻害されることなどに対して、とても強い恐怖心が生じます。
阻害されること、孤立すること、仕事等の居場所を失うこと、収入を失うことなどに対して、必要以上に恐れおののきます。

孤立するのはダメだ、孤立すると生きていけない等と思い込み、無用な不安や恐怖をつくっている自分自身に気づいてください。

孤立したって、一人きりになったって、収入がなくたって、生きていけます。
大丈夫です。
なるようになっていくだけです。
(例え仮に、死ぬようなことがあっても、死だって大したことじゃありません、笑)

社会を「私」の上に置かないでください。
社会に依存しているあなたは、社会の奴隷です。

社会を足の下に踏みつけるくらいの強い気持ちで、その依存心や恐れを断ち切ってください。
そして、社会を対等でフラットな視線で眺めて頂きたいと思います。


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感情等に翻弄されているときはチャンスです

2015年04月02日 20時36分54秒 | 悟り
◇感情等に翻弄されているときはチャンスです◇

自覚の基本は、自分に意識を向けることです。
特に何も無い平穏な状態のときは自覚が上手くできていても、人と対峙しているときや、悩みや心配事があるときなどは、起きてくる感情や思考に同化してしまい、自覚を喪失してしまうということがよく起こるだろうと思います。
そのように、起こってくる感情や思考に同化してしまい翻弄されることは本当にしばしば起こるだろうと思います。

それで普通です。
最初のうちはそういうものなのです。
余り落胆したり、自分を責めたりしないで頂きたいと思います。

それよりも、いかに粘り強く自覚を続けていくのかが重要です。
考えに翻弄され自覚を喪失してしまうことを嘆くより、自覚を続けていくことの方に意識を向けて頂きたいと思います。

また、こんなことも言えます。
感情や思考等の考えに翻弄されているときは、そのときこそ、自覚の絶好のチャンスなのです。
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、ただ無力に考えに翻弄されてしまうのではなく、一瞬でもいいので、考えに翻弄されている自分に気づいて頂きたいと思うのです。

「あっ!いま自分は考えに翻弄されている!」と、気づいて頂きたいのです。

そして、そのことに気づくことができたなら、もう一踏ん張りして、その自分が翻弄されている感情や思考を、自覚の視点から観て頂きたいのです。

その瞬間、あなたは、そのような感情や思考を引き起こしている考え(囚われ)に気づくはずです。
気づけば、その囚われはパッと消失します。
後には、ウソのように晴れやかな、あるいは思わず笑いたくなるような感覚が残ると思います。

ぜひ、この感覚を味わって頂きたいと思います。

感情等に翻弄されているときこそ、チャンスなのです。(^^)


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幸せという不自由に気づく

2015年04月01日 23時19分01秒 | 悟り
◇幸せという不自由に気づく◇

多くの方が感じる幸福感は、実はとっても不自由な状況です。
幸せは、多数の条件で縛られたとても窮屈な状況なのです。

どういうことかと言いますと、まず幸福感を感じるためには、感覚的に少なくとも不快でない必要がある訳なのです。
つまり、寒くて死にそうだとか、お腹が減って死にそうだとか、何処かが痛くて、あるいは苦しくて死にそうだという状況では幸せとはほど遠いのです。
通常の場合、衣食住等の基礎的な環境がある程度整っていてこそ、幸福感が得られるのです。

私たち人間は貪欲ですから、ある程度感覚的な面で不自由がなくとも、多くの人はそれだけでは満たされません。
自分のいる状況に対して、より厳しい条件を設け、それを満たそうとします。
多くの場合、その条件は、何かを獲得することによりクリアされるものとなっています。
学歴、仕事、お金、恋人、家庭、家等のモノ類などなどです。

大きな幸福感や喜びを得ようとすると、際限なしに条件の数は増えていき、限りなく窮屈になっていきます。

これが、みなさんが求めている幸福の姿です。

そのことに気づいて頂きたいと思います。


中には、自分は、真の幸福である愛や平和、世界の調和を求めているのであって、一般の人と自分を一緒にしないでほしいと言う方がおられるだろうと思います。
いや自分は、何も求めていない、ただあるがままでいいんだ、そこにこそ真の幸福があるんだと言う方もおられるのだろうと思います。

しかし、愛や平和や調和、そして「あるがまま」も考えであり、囚われであり、条件付けなのです。

そうすると、幸せって何だろうと思う方がおられるかもしれません。

幸せって、何なのでしょうね。(^^)

ぜひ、考えてみて頂きたいと思います。(^^)


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どうして解脱を求めるのか

2015年03月31日 21時21分27秒 | 悟り
◇どうして解脱を求めるのか◇

人はどうして解脱を求めるのでしょうか。
それは、苦しいからです。
消えてしまいたいくらい苦しいから、解脱を求めるのです。

また、人はどうして解脱するのでしょうか。
それは、私という存在そのものが苦であることに気づいたからです。
それに気づいたなら、解脱するしかないのです。

幸せな人には、解脱は不要なのです。
また、幸福を追い求める人にも、解脱は不要なのです。


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いつも見守っている

2015年03月24日 23時00分19秒 | 悟り
◇いつも見守っている◇

あなたのことをいつも見守っている存在があります。

あなたが喜ぶ姿も、辛く苦しむ姿も、そして頑張っている姿も。

いつもあなたと一緒に、感じ、感動している存在があります。

そのことに気づいてください。

そして、その愛を受け取ってください。


あなたも、そしてそれを見守っているあなた自身も、ひとつです。

もうそれ以上、自分で自分を責めないでください。

自分を許してください。

自分を受け入れてください。

そして、その溢れる愛を受け取ってください。


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世界の中心に気づく

2015年03月24日 09時08分10秒 | 悟り
◇世界の中心に気づく◇

この世界の中心とは、どこでしょう。
それは、「私」です。
私たち個々の存在それぞれが、それぞれの世界の中心なのです。

あなた自身が、あなたの世界の中心であり、主人公なのです。
主人公は、あなた一人だけなのです。

早くそのことに気づいてください。

神や何か絶対的なものが中心にある訳ではないのです。
この肉体をまとったこの「私」が中心なのです。

あなた自身が世界の中心であり、たった一人の主人公なのですから、誰か他の人を主人公にしないでください。
あなたが主人公なのですから、他の人をうらやむ必要はないのです。
また、他の人の言動等に翻弄される必要もないのです。

感情や思考等の考えについても同様です。
感情や思考に翻弄されたり、深刻になるのは馬鹿げています。

「これは許せない」と思い、怒っているのは誰ですか?
「これは困った」、「大変だ」と思い、深刻になっているのは誰ですか?

あなたでしょ?
世界の中心にいる「あなた」がそう考えているのでしょ?

「私」が考えていることなのに、自分の考えに翻弄されていたんだ、ということに気づいてください。


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