私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

思い出ばなし(瞑想と呼吸)

2014年05月20日 10時37分33秒 | 個人的なこと
◇思い出ばなし(瞑想と呼吸)◇

瞑想と呼吸に関連して思い出したことがあるので、また私の思い出ばなしを書いてみたいと思います。
内容的には何も無いので、気が向かれた方だけご笑読ください。


まず瞑想との出会いですが、私が瞑想と最初に出会ったのは結構古いのです。
確か小学3、4年生のころ、亡き父からのほんの初歩の初歩の瞑想を少しだけ教わりました。
じっと静かに座り、心を落ち着かせ、無心になること等を教わりました。
父は過去に少林寺拳法の経験があり、その練習の中で瞑想をしていたようでした。

どうして父が私に瞑想の話をしたのか、また私がどうして瞑想に興味を感じたのか、今となっては分かりませんが、なぜか私は瞑想に興味を感じ、暫くの間、遊び感覚でときどき瞑想をしていました。
私が父に思考が収まらないと言うと、父は親指と人指し指の間に微かな隙間を空けて、その隙間に意識を持っていくんだなどの助言をしてくれたりもしました。
そうしたら、今度は指の間の隙間のことばかりに気が行ってしまい、困ったのを覚えています。(^o^)

それでも、暫くの間、不定期ながら時折瞑想をやっていて、自分なりに無心になれたような気がしたことがあったのです。
本当に無心になれたのかどうかは少し怪しいところですが、当時の私はそんな気がしたんです。
それで、父に無心になれたと言うと、父はそんなはずはない、お前が無心になれるはずがないと言って相手にしてくれませんでした。(^o^)
頭の中にほんまに何も無くなったんだってば、ほんまにそうなんだってば、などと父にしつこく訴えていた様子を覚えています。(^o^)

そうしているうち、私の瞑想ブームが終わり、殆ど瞑想はやらなくなっていきました。
それでも、ごくたまに思い出したように、瞑想をしていました。

いま思うと、私の意識変化の下地はこういうところにもあったのかも知れないと思ったりもしています。


それで呼吸の話になります。^^

なぜ呼吸の話かと言うと、先週ここに書いた記事「受け入れの瞑想」で、三十歳過ぎのころ、気功教室に通って気功を習いながら、毎晩瞑想をしていたと書きましたが、それに関連して思い出したことがあったのです。

瞑想をやっていると、知らない間に呼吸が止まってしまうことがよくあったのです。
数を数えながら瞑想をする数息観をやっているときも、それはよく起こっていました。
それを思い出したのです。

どうやら、私は三十過ぎのころに既に、瞑想で無心に入ることができていたのだということが分かったのです。
(瞑想中に呼吸が止まるのは、深い瞑想に入ったときによく起こる現象のようです。)


だからなんだと言われそうな記事になり、ごめんなさい。(^o^)

なお、瞑想で無心になること自体に意味はありません(誤解しないでください)。
あくまでも、悟りとは自分を知っていくことであり、無心になることは関係ないです。
ただ、無心になれるということは、思考の量の少なさや、思考のコントロール能力のある程度の指針になるのかもしれないと思います。


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読んで頂いてありがとうございました。

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コメント (2)
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