私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

思い出ばなし(宇宙と虚無)(1)

2014年05月28日 13時39分59秒 | 個人的なこと
◇思い出ばなし(宇宙と虚無)(1)◇

また一つ思い出ばなしを書いてみたいと思います。

私には、生来の特性として根本を追求するという強い衝動があります。
6歳のころには、不要となったネジ式の柱時計を分解したりしていました。
また小学校に入ると、真空管テレビを分解したりしていました。
根本を追求する衝動の他に、強い破壊衝動もあるようです。(^o^)

そうしているうち、私の興味は物理や宇宙に向かうようになりました。
そして、中学3年のころには、宇宙の仕組みや、宇宙がどうしてあるのか等について思考を巡らすようになっていました。
その方面の一般向け啓蒙書を読んだりしながら、時間、空間、物質とは何なのかとか、宇宙がどうしてあるのか等について、延々と考えていました。
なお、私のその疑問は余りに根本的なものであり、私の疑問に答えてくれる書物はありませんでした。

そしてあるとき、確か高校2年から3年にかけてのころ、私は自分の疑問に対する一つの解答を得たのです。
その解答とは、私はこの宇宙の構成要素そのものなのだから、その私がこの宇宙の根本を知り得るはずがないというものでした。
時間、空間、物質等の宇宙の構成要素の根本が何であるのかという疑問はもちろん、宇宙がどうしてあるのかという疑問も、その理解を私たち人間が得ることは根本的に不可能であることを確信したのです。
つまり、私たち人間にとって、宇宙発生の根本原因を知り得ない以上、その根本原因は存在しないも同然なのです。

このことは私にとって衝撃でした。
なぜなら、宇宙の根本原因が存在しないも同然ということは、宇宙があることの意義(意味)も存在しないも同然だということだからです。
そしてそれは、宇宙そのものや宇宙に含まれる各事象の存在意義(意味)も存在しないも同然だということだからです。
そして、その衝撃は直ぐに虚無感に変化していきました。

いまから思うと、そのときの感覚には衝撃の他に、やっぱりだとか、思った通りだという感覚もあったように思います。
なぜなら、私の中には幼少の頃から、何もかも意味なんて無いんだ、すべてはどうだっていいことなんだという漠然とした虚無感のようなものがありましたから。

高校3年からその翌年の自宅で受験浪人した年にかけて、私はどっぷりと虚無感に浸って生きていました。


上の文章を読まれて、宇宙の根本については興味を持ったのに、私という自意識(自我)については興味を持たなかったのかと問われそうですが、自意識については余り興味を感じなかったのです。
私は2012年の暮れに明け渡しが起こるまでは、ガチガチの現実主義といいますか、唯物論者だったので、神や霊魂のような非現実的な事柄については完全に否定的な考え方を持っていました。
それで、私という自意識ついても、頭の中の信号の何らかの関係性による生じる物理現象だと思い込んでいました。
このため、私という自意識についてはそれほど興味はなく、人工知能等の進展に伴っていずれ自意識についてもその原理が解明されるだろうと思っていました。
例外的に、「気」だけは何故かそれを感じるし、目でも見えるので、その存在を認めていました。
しかし、それも電磁波の一種に違いないと思い込んでいました。(^o^)


(続きは、またたぶん書きます^^)

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読んで頂いてありがとうございました。

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