◇非二元の悟りと無常、無我の悟り◇
今回は、非二元の悟りと無常、無我の悟りについて、改めて書いてみたいと思います。
悟りも無常、無我まで来るとそれなりに絞られてくると言いますか、バラつきが減ってくるのですが、非二元は概念も人それぞれで、悟りのバラつきも大きいようです。
そこでここでは、良い悪い等の二元の囚われが大体無くなり、思考が減り、ただ観ている意識である観照意識がそれなりに確立した悟りを非二元の悟りと言うことにします。
まず言えることは、非二元の覚者はまだ囚われや思い込みがそれなりに残っており、言葉の端々にそれが容易に見て取れます。
例えば、「真我」、「全体」、「光」、「恒久」、「不滅」、「不変」などの言葉がそれです。
無常、無我まで悟ると、囚われや思い込みが大方無くなっているため、そのような言葉は決して出て来たりしません。
さらに、非二元の覚者は世界を観照している観照の視点と言いますか、認識の主体と言ってもいいですが、それがまだ残っています。
無常、無我まで悟ると、観照の視点が落ちると言いますか、認識主体の欠落が起こると言いますか、それらの質的変化が生じます。
無常、無我を悟る過程で、「観るものは観られるもの」の体験が起こる場合がありますが、非二元の覚者はそれも未だなのです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
今回は、非二元の悟りと無常、無我の悟りについて、改めて書いてみたいと思います。
悟りも無常、無我まで来るとそれなりに絞られてくると言いますか、バラつきが減ってくるのですが、非二元は概念も人それぞれで、悟りのバラつきも大きいようです。
そこでここでは、良い悪い等の二元の囚われが大体無くなり、思考が減り、ただ観ている意識である観照意識がそれなりに確立した悟りを非二元の悟りと言うことにします。
まず言えることは、非二元の覚者はまだ囚われや思い込みがそれなりに残っており、言葉の端々にそれが容易に見て取れます。
例えば、「真我」、「全体」、「光」、「恒久」、「不滅」、「不変」などの言葉がそれです。
無常、無我まで悟ると、囚われや思い込みが大方無くなっているため、そのような言葉は決して出て来たりしません。
さらに、非二元の覚者は世界を観照している観照の視点と言いますか、認識の主体と言ってもいいですが、それがまだ残っています。
無常、無我まで悟ると、観照の視点が落ちると言いますか、認識主体の欠落が起こると言いますか、それらの質的変化が生じます。
無常、無我を悟る過程で、「観るものは観られるもの」の体験が起こる場合がありますが、非二元の覚者はそれも未だなのです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ