◇自我の二相性と主客の統合◇
今回は、私という自我の二相性について書いてみたいと思います。
私という自我には、二つの相があります。
一つ目の相は、日常的に私たちが感じている自我の相です。
この相は、私という主体と、その主体の対象となる客体とが分離している相です。
つまり、音や光、感触と言った知覚の対象とは別に、それらを知覚する主体がある、正確にはあるように感じる相です。
二つ目の相は、私という主体と、その対象となる客体とが統合している、正確には統合しているように感じる相です。
この相は、悟りの行程を無常、無我を理解できる付近まで進むと経験するようになりますし、悟らずとも意識の集中が極まってくると経験することがあるのだろうと思います。
この相を経験すると、認識が無いとか、自我が無い等の誤解が生じやすいのですが、起こってきたことを認識しているのですから、認識も自我も消えずに残っています。
この相では、主体は起こってくること(客体)と一体化し、それそのものとなって起こってきます。
認識が無い等の誤解が生じやすいのは、この影響もあるかも知れません。
私がこのブログに書いている「私とは識の連鎖である」は、二つ目の相における観点によるものです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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つまり、音や光、感触と言った知覚の対象とは別に、それらを知覚する主体がある、正確にはあるように感じる相です。
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この相を経験すると、認識が無いとか、自我が無い等の誤解が生じやすいのですが、起こってきたことを認識しているのですから、認識も自我も消えずに残っています。
この相では、主体は起こってくること(客体)と一体化し、それそのものとなって起こってきます。
認識が無い等の誤解が生じやすいのは、この影響もあるかも知れません。
私がこのブログに書いている「私とは識の連鎖である」は、二つ目の相における観点によるものです。
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