◇自我の本質と自己認識◇
私という自我は本当に不思議なものなのですが、その仕組みや、それが何故起こったのかについては誰も知り得ません。
これは間違いありません。
さらに、一切のことがらに実体がありませんから、私という自我にも実体はありません。
私という幻のような現象が起こっているに過ぎません。
そんな捉えどころのない自我について、本来切れないものを私なりに無理やり切ってみたいと思いますw
自我の本質について一言に集約するなら、私は自己認識だと考えています。
自己認識とは、認識が認識を認識する、あるいは、あたかも私があるように感じる(自我感覚)ことです。
認識が認識を認識するとは、目が目を見る、あるいはカメラがカメラを撮影するようなものであり、理屈で説明しようとしても無理です。
しかし、自我という現象には本質的にそのような要素が含まれているようです(あるいは、含まれているように感じます)。
次に、自己認識とその機能要素について考えてみたいと思います。
自己認識が起こるために必要な機能要素は何かと、私なりに考えた訳です。
その機能要素は三つあると考えています。
一つ目は、持続性を有する観点。
二つ目は、その観点に基づく何らかの認識。
三つ目は、その観点と関連付けられた記憶。
しかし、このように要素に分解すると、大切な何かが抜け落ちしてしまうようです。
何かが足りないのですが、その何かを見つけようしてもおそらく無理なのでしょう。
残念ながら、私の刃では切れ味が足りなかったようですですw
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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これは間違いありません。
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そんな捉えどころのない自我について、本来切れないものを私なりに無理やり切ってみたいと思いますw
自我の本質について一言に集約するなら、私は自己認識だと考えています。
自己認識とは、認識が認識を認識する、あるいは、あたかも私があるように感じる(自我感覚)ことです。
認識が認識を認識するとは、目が目を見る、あるいはカメラがカメラを撮影するようなものであり、理屈で説明しようとしても無理です。
しかし、自我という現象には本質的にそのような要素が含まれているようです(あるいは、含まれているように感じます)。
次に、自己認識とその機能要素について考えてみたいと思います。
自己認識が起こるために必要な機能要素は何かと、私なりに考えた訳です。
その機能要素は三つあると考えています。
一つ目は、持続性を有する観点。
二つ目は、その観点に基づく何らかの認識。
三つ目は、その観点と関連付けられた記憶。
しかし、このように要素に分解すると、大切な何かが抜け落ちしてしまうようです。
何かが足りないのですが、その何かを見つけようしてもおそらく無理なのでしょう。
残念ながら、私の刃では切れ味が足りなかったようですですw
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