◇最後は私に戻る◇
どんなに深く悟ろうと、最後は日常の私に戻っていきます。
私についてどんな観点から悟ろうと、日常の私は大した変化のないままあり続けます。
私というものに付き合っていくしかないのです。
大人しくなることはあっても、思考や感情はやっぱりあるし、何かを考えようとしたり、しようとする発意も相変わらず残っています。
心の動きにまとわりつくように生じるわずらわしさというか、苦の感覚もやっぱり残ります。
私とは何なのか、なぜ私があるのかも、やっぱり分からないままです。
日常の素直な観点から私を観たとき、これが私に関する素直な感覚というか、実感です。
この私に関する日常的な実感は、悟る過程、あるいは悟りの行程を歩む過程では邪魔になることがありますが(注:悟りの行程の歩み方によっては邪魔にはならず、むしろ中心的な道しるべになります)、最後は否応なく、またここに戻ってくるという意味でも、より本質的な私観と言えるかも知れません。
各方面の覚者の皆さんは、いつまでも自分の悟りにしがみ付いていないで、改めてこの現実に向き合うべきではないかと思います。
何が言いたかったのか、自分でもいまひとつまとまらず不満なのですが、このままアップしてしまいますw
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私についてどんな観点から悟ろうと、日常の私は大した変化のないままあり続けます。
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心の動きにまとわりつくように生じるわずらわしさというか、苦の感覚もやっぱり残ります。
私とは何なのか、なぜ私があるのかも、やっぱり分からないままです。
日常の素直な観点から私を観たとき、これが私に関する素直な感覚というか、実感です。
この私に関する日常的な実感は、悟る過程、あるいは悟りの行程を歩む過程では邪魔になることがありますが(注:悟りの行程の歩み方によっては邪魔にはならず、むしろ中心的な道しるべになります)、最後は否応なく、またここに戻ってくるという意味でも、より本質的な私観と言えるかも知れません。
各方面の覚者の皆さんは、いつまでも自分の悟りにしがみ付いていないで、改めてこの現実に向き合うべきではないかと思います。
何が言いたかったのか、自分でもいまひとつまとまらず不満なのですが、このままアップしてしまいますw
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