◇空を批判する◇
仏教で使われる概念に、空というものがあります。
今日は、その空を批判します。
空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方そのものが既に筋が悪いのです。
そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。
よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。
ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。
むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。
わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。
むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができます。
ここはとても大切なところです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。
むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。
わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。
むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができます。
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なんだか空にとてもきょうみがあります。
>日常的な概念を使って同程度の説明
とあるので、できれば教えていただけないでしょうか?
空に触れることなく、それを知らないまま悟ってしまったのです。
つまり、悟りに空は必須ではないのです。
でも空について少しは知っているので、その範囲で説明を書きますね。
空と同義な言葉として、無常、無我があります。
無常とは、一切は常に変化するものであるという意味です。
無我は、一切に実体あるいは絶対がないという意味です。
私はよく知らないので余り強く断言はできませんが、空は、この無常、無我を合わせたような意味のはずです。
空よりも、無常、無我の方が遥かに日常的な概念でしょ。
空についてもっと日常的な言葉で説明すると、「考え」です。
意識あるいは識と言ってもいいです。
入れ物に該当する概念は無くて、入れ物等も含めて一切が空っぽだと言っているのです。
しかし、空の空っぽという意味合いの要素は小さくて、主要な意味要素ではないはずです。
なぜなら、空っぽというなら、類似の概念として「無」がありますが、空と無は本質的に異なるものですから。
空は、有る無しについてはウエイトは置いていないというか、相手にしてないはずです。
有る無しの議論は、結論がなく、一切のことがらについて有るとも無いとも言えないものですから。
さて、一切、全ては、無常、と言いますが、輪廻の主体についても無常なのでしょうか?解脱すると輪廻から外れると言いますが慧空さんもどうなるのかわからないとおっしゃっています。としますと一切全てと言い切るわけにも行かないようにも思えます
興味深い切り口だと思います。
私自身も、そんなこと考えたことなかったです。
もし解脱し、涅槃に入るという現象が本当にあり得るのなら、涅槃は何も起こらないし、何も変化しませんから、
涅槃は無常の唯一の例外である可能性があると思います。
感情も肉体も一過的な物に過ぎない、輪廻の主体こそが不変の自己なんだからそこで安らぎをえる、と言う教えは考えないといけなくなるわけですね。感情も肉体も輪廻の主体も時間スケールが違うだけで全ては無常なのだと、言うことにならないかと思いました。
つまり、無常という考えの言っている、ものごとは変化するものであるというのは、言い切り過ぎであり、この点で間違っているのです。
無我の観点からすると、一切のことについて断言できませんし、
現に、涅槃のように変化しないものもある可能性がありますから。
解脱者が涅槃に入るのかどうかもわからない、とおっしゃいます。それでは涅槃に入ってからもう一度輪廻に入るのかもわからないのではないと言うような気もしますがどうなのでしょうか?
それから、何もかもあるともないとも言えないともおっしゃいます。一方で根本苦はあるかのように語られます。根本苦があると言うのであれば、全ては無我であるとも言えないような気もしますがどうなのでしょうか?
なんとなく解脱に至る過程と解脱が成立したあと、それからそのあと、で必要な要件が変わるような気もします。空、無我、無常、根本苦を認識している必要性と言いますか、階層に至るには大事だが、通過してしまうと特に重要でなくなる概念があるのではないのかと思ったりしました。
何もかもよくわからない素人の話でお騒がせして申し訳ないです。私にはよくわかりませんので慧空さんのお考えの役に立てば何かご返信くださったり、雑音であれば無視してください。
その可能性は否定できないとは思います。
しかし、悟りの意識状態は何らかの形で次の転生に残るようなので、解脱すると、もう転生はしないのではないかと考えています。
>それから、何もかもあるともないとも言えないともおっしゃいます。一方で根本苦はあるかのように語られます。
根本苦も、あるとも無いとも言えない実体の無いものです。
無我には、例外はありません。
>なんとなく解脱に至る過程と解脱が成立したあと、それからそのあと、で必要な要件が変わるような気もします。
そういう部分はあるのだろうと思います。
私自身も悟りの階層を上がる度に、それまでは役に立っていた悟り概念をどんどん捨てていきました。