summer diary

日記らしきページ

変わらない日々

2024年06月05日 | Weblog
 こうして毎日ブログ(日記)を書いてる。 特に主だった事など無い。 変わった事も特に無いし、幸不幸も特に無いし。 まっ、平穏無事の日々と言う事になるだろうか。 何事も無い日々で、のんびりと、気楽に、安穏に過ごす事はもちろん幸せである。 幸せの定義はどうか知らないが、少なくとも不幸でも無いし、特に悩みや苦悩なども皆無だ。 今日もいつも通りにバイトから帰宅して、食事を済ませて、洗濯物を干して、(今日は妻が2回洗濯を終えて干し終わっている)今日はバイトに持って行くシーツと掛け布団、枕カバーを帰宅早々に洗濯して干した。 天気が良く、陽射しが強く、洗濯物日和である。 
それから髭を剃り、髪の毛をセットして、歯磨きをして、こうして落ち着いてのんびりとブログを書くのである。 
これもいつも通りの私の習慣だ。 何度も書いているが、バイト明けは昼まではアッという間に来てしまう。 なので、午前中にギターなどを弾いて過ごす事は難しいのであるが、今日は妻が洗濯物をしているので、その分は時間に余裕がある。 
なので、ブログを書き終わったらギターを少し弾こうとも思う。 午後からは少し休んで、1時間程度はギターを弾いてから夕方の支度をする。 支度と言っても、洗濯物を取り入れて、片付けて、風呂に入って、食事をする程度なのである。 筋トレは昨日しているので、今日、明日は休養日になる。 
昨日は玄関の絵を入れ替えた。 ピカソのポスターを額に入れて飾った。 壁の色や廊下のフローリングの色ともマッチしていて、とても落ち着きのある絵になった。
まだ、他にも数枚もあるので、今後は月1枚程度を額に入れて差し替えるか、他の場所に飾る事も検討している。 
色の無い線だけの絵だが、こうした絵の方が落ち着きが有るし、主張し過ぎず、品の良さを感じる。 以前から(かなり以前から)玄関にはイーゼルに乗せて飾ってある絵があるが、これは妻と結婚する時に購入した絵である。 ジョン・レノンの石版画である。 これは本物で、サインと版ナンバーが記されて居る。 ただし、1000枚程度も刷られて居るので、絵の価格的には大した事もない。 ただ、ジョンのこうした絵の中でも一番気に入って居る絵である。 額のサイズは60Cm×90Cm以上はあるだろうか。
私は若い頃には画家になりたいと思っていたので、絵に関してはある程度の知識もあるし、特に抽象画、現代アート、近代絵画が好きなので、ピカソやマチス、クレー、ブラックなどの線だけの絵はとても好きだ。 
モンドリアンの抽象画も唯一無二の絵で、とても好きである。 もちろん、芸術がフランスやイタリアからアメリカに先端芸術の拠点が移ってからの抽象表現はとても興味深い。 ポロック、クーニング、デシャン、ジャスパー・ジョーンズやフォーフォールなども興味がある。 その他の現代画家には影響を受けた。 他方で、スーパーリアリズムなどの超写実主義の絵画もとても興味深い。 その先駆者であるロックウェルの人間性やパリッシュの透明感のある空間に佇む女性の普遍的な美にも感銘を受ける。 
もちろん、それ以前に、レンブラントやミケランジェロ、ダビンチなど、その他の時代を象徴する画家達の傑作には感嘆する以外には無い。 
もちろん、絵画に止まらず、イラストやポスターなどにも傑作は膨大だ。 最近の画家に関してはあまり知らないけど、何時の時代にも天才はいるし、傑作が作られて居る。 絵だけでは無く、彫刻も同じだろう。 
ただし、所謂、空間芸術と言うか、現代の芸術と名をもってして発表されるオブジェクトなどには違和感を抱く物有るし、映像が芸術だろうか?? とも思えるし・・。 何よりも、政治的、戦略的、恣意的、ある種の特定の事柄や物、思考、概念、制度や政策、その他のメディアに対する主張に偏った物は私は芸術とは思って居ない。 
芸術は自分の意思を表現する物に止まっては芸術では無い。 あくまでも、これは絶対的にである、あくまでも、美を追究する所にこそ本来の芸術としての役割を全う出来ると私は確信しているのである。 
あるオブジェを自分の意思や主張を表現するだけの物として作成された物は芸術では無い。 それは単なる作家の意図した物でしか無く、絵として、彫刻として、オブジェとして、映像としても、そこには人間が求める美が完璧に結晶されている必要がある。 
単なるその時代に生きた人間の主張など、時代が変われば、ただのゴミ同然の物と成り下がる。 芸術は時代や時間や空間からも超越した普遍的な美の結晶であるからこそ、時代が変化しても、どんな時代や世界になろうとも、人間の心の奥底にある美意識に浸透してくるのである。 
これは、音楽でも同様だろう。 もちろん、文学や小説、落語、俳句、和歌なども同じ要素を持っているだろう。 
例えば、ピカソの絵の中には美とはほど遠くに感じる物もある。 がしかし、その絵を見続ける事で、そこには確実に他には真似出来ない美が凝縮されている・・・事に気づくだろうし、美に対する審美眼を養う事で、本物の傑作を見つける事が出来るだろう。 私が単純化された線だけの絵画を好む事も、無駄な物を削ぎ落とした完全な美に対する意思が強く働くためである。 得てして、一見綺麗な色で描かれた絵は魅力的に写る。 洗練された人物の姿勢や衣装、背景、絶妙な構図で構成された絵画はそれ自体が魅力的だ。 しかし、何も多くの色や人物でなくても、美の神髄を伝える事は単なる線だけでも伝える事は可能だ。 これは、長編小説と俳句と、作家が意図する心の着地する場所はそれほど違いは無い。 
長編小説の最後の着地点で読み手に与える事が出来るメッセージは俳句や短歌のそれと大きな違いがあるだろうか?

さてと、ちょっと長くなった。 今日ものんびりとギターを弾いて過ごすのである。
私のギターの演奏が芸術とかけ離れていても、それは当然で、未だに初心者の域を脱しない私のつたない表現力など到底芸術などと言えるはずも無い。 がしかし、私は特に芸術的な演奏を意図していないし、それほどの技量も経験も才能だって無い。 
ただの趣味でしか無く、それでも、もちろん、音色には拘るし、流暢に弾きたいし、素敵な表現力も身につけたいと願っている。 
毎日練習して、残されて居る命の限り、ギターを愛して弾き続ける事に決めて居る。