時間の経過とともに地震の事を忘れてしまうだろうか?
以前、ブログに貼り付けた動画をまた紹介してます。
この動画の再生回数は1200万回を超え、世界中の人が観たと思う。
この映像を観るまでは津波って高波をざぶーんと被るものだと考えてましたが
じわりじわりと水位が上がり街を飲み込み建物を押し流して
街は壊滅して多くの住民が犠牲になりました。
南三陸町志津川高校から見た津波の様子 Tsunami attacking in Minami-Sanriku
志津川病院の4階の天井まで浸水し、屋上に避難出来た人は助かり
自力で避難出来ない多くの患者さんが犠牲になっている。
この動画を観て現地に行かなければ男をやめるぞ!!!
そう自分自身に厳しく言い聞かせて決意した。
でも、母は入院中だし生活物資も不足していて
現地に行くガソリンも不足していた。
地元瑞江火葬場では名取市から遺体600体以上が運ばれ火葬をしてた。
4月24日にガソリン携行缶(20L)を入手して準備が整い
開設したばかりの南三陸町ボラセンブログでの呼びかけに応じた。
自転車でも行ける浦安市の液状化被害のボランティアが市民限定、
千葉県旭市の津波被害は県民限定、茨木県も県民限定
一番近い場所でも石巻まで行かないとボランティアの募集が無い。
トラックで現地に行き荷物運びを熱望した。
石巻では「トラックを使用する事自体がボランティアの範囲を超えた活動です!」と断られてしまいました。
東北道若柳金成ICから東へ太平洋を目指すと南三陸町。

町の手前、標高はそれなりの場所までこうしてガレキや漁船が運ばれている。

志津川に沿った国道を町の中心部に向かって走っている写真だが
初めの動画で多くの家が上流に向かって流されているのはこの場所。

写真中心部に建つ建物が防災センターで鉄骨の骨組みだけが残っている。
これが町の職員の女性の最後まで住民に避難を呼び掛けて犠牲になった建物。
5月8日の初めてのボランティアは志津川小学校の学校の再開に向け
避難所を引っ越す為の住民の荷物をトラックで運びました。
それぞれが全国から仕事で使うトラックに乗って駆け付けた男達だ!
この時一緒に活動した東京からやって来た造園業の生田さんは
5月22日も現地で再会し、その後は毎週のように通い続け
9月に再会した時はボランティアリーダーとして活躍してました。
私はボランティアの翌日の朝、父を救急車で病院に送り
その35日後にこの世を去りボランティアから遠ざかってしまいました。
9月に支援物資を届けたのが最後になりました。

私のこれらの活動は誰にも頼らず誰の記憶にも残らず
ただ、自分の心に深く刻み込んだに過ぎません。
goo注目のブログで紹介されているスコップ団のような達成感も
仲間も居ない、疲労感に包まれた活動でした。
それでも自分の行動には誇りを持っている!
将来「あの時何もしなかった」と後悔したくなかったから…
復興への願いが人一倍強いのはこれなんですよ。。。
以前、ブログに貼り付けた動画をまた紹介してます。
この動画の再生回数は1200万回を超え、世界中の人が観たと思う。
この映像を観るまでは津波って高波をざぶーんと被るものだと考えてましたが
じわりじわりと水位が上がり街を飲み込み建物を押し流して
街は壊滅して多くの住民が犠牲になりました。
南三陸町志津川高校から見た津波の様子 Tsunami attacking in Minami-Sanriku
志津川病院の4階の天井まで浸水し、屋上に避難出来た人は助かり
自力で避難出来ない多くの患者さんが犠牲になっている。
この動画を観て現地に行かなければ男をやめるぞ!!!
そう自分自身に厳しく言い聞かせて決意した。
でも、母は入院中だし生活物資も不足していて
現地に行くガソリンも不足していた。
地元瑞江火葬場では名取市から遺体600体以上が運ばれ火葬をしてた。
4月24日にガソリン携行缶(20L)を入手して準備が整い
開設したばかりの南三陸町ボラセンブログでの呼びかけに応じた。
自転車でも行ける浦安市の液状化被害のボランティアが市民限定、
千葉県旭市の津波被害は県民限定、茨木県も県民限定
一番近い場所でも石巻まで行かないとボランティアの募集が無い。
トラックで現地に行き荷物運びを熱望した。
石巻では「トラックを使用する事自体がボランティアの範囲を超えた活動です!」と断られてしまいました。
東北道若柳金成ICから東へ太平洋を目指すと南三陸町。

町の手前、標高はそれなりの場所までこうしてガレキや漁船が運ばれている。

志津川に沿った国道を町の中心部に向かって走っている写真だが
初めの動画で多くの家が上流に向かって流されているのはこの場所。

写真中心部に建つ建物が防災センターで鉄骨の骨組みだけが残っている。
これが町の職員の女性の最後まで住民に避難を呼び掛けて犠牲になった建物。
5月8日の初めてのボランティアは志津川小学校の学校の再開に向け
避難所を引っ越す為の住民の荷物をトラックで運びました。
それぞれが全国から仕事で使うトラックに乗って駆け付けた男達だ!
この時一緒に活動した東京からやって来た造園業の生田さんは
5月22日も現地で再会し、その後は毎週のように通い続け
9月に再会した時はボランティアリーダーとして活躍してました。
私はボランティアの翌日の朝、父を救急車で病院に送り
その35日後にこの世を去りボランティアから遠ざかってしまいました。
9月に支援物資を届けたのが最後になりました。

私のこれらの活動は誰にも頼らず誰の記憶にも残らず
ただ、自分の心に深く刻み込んだに過ぎません。
goo注目のブログで紹介されているスコップ団のような達成感も
仲間も居ない、疲労感に包まれた活動でした。
それでも自分の行動には誇りを持っている!
将来「あの時何もしなかった」と後悔したくなかったから…
復興への願いが人一倍強いのはこれなんですよ。。。