Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

「今、頑張れ!を言いたい人は?」無論、沢山いる!

2017年08月11日 12時43分01秒 | 人生訓・人生論・人の生き様・年末年始賀正・正月祝・祝誕生日・記念日・祝祭日旗日
頑張って、頑張れと言う言葉は、私は結構好きなことばなのだが、うつ病患者には禁句だという。
 曰く、私はがんばっているのだ、これ以上どう頑張れというのか、とうつ病患者たちはのたまう。
 考えてみると、うつ病患者の一日の生活を見直し、反省してみると、余りに自分自身の事ばかり、まるで「自分が一番だいじ」と、エゴのかたまりになってはいないだろうか。
 先日、日蓮正宗の指導会で、新井尊師(布教部副部長)という御僧侶がわざわざ東京から、福島県は郡山市の当、無量山寿海寺においで下さり、お話、訓諭・訓戒・訓話為されていったが、そのお話の中でも、この「うつ病」の話が出た。
 曰く「何故うつ病になるか?動かないからだ。ある医者が、治療上で言うのは、二週間、自分の事を考えない。自分の事ばかり考えるから鬱病になり、治らない。その人は自分の事以外の、他者への感謝がない。他人の幸せの為に行動すれば、そんなうつ病など必ず治る。」と仰った。
 加藤諦三さんの著作群「青春をどう生きるか―いまやらなくて、いつやれる―」(カッパブックス・光文社)や「行動してみることで人生は開ける―まず、できることから、やってみる―」(PHP文庫)等を読めば、うつ病患者もその病にどう対処すればよいか、ヒントが与えられるだろう。
 うちの今は亡き親戚の東京にいた叔父さんも晩年、うつ病に苦しみ、病院を転々として最期は病気で亡くなったが、私が何か助力を、援助を、人生上でも大変お世話になりっ放しのこのわたくしめが何でも良いから人助けが出来なかったのか、という後悔の念で、一杯である。無念より何より、あの生前本当にお人好しで優しかった叔父さんに少しでも寄り添ってあげられなかった自分の不甲斐なさが悔やまれ、自責の念で、自分が身代わりになってあげたかった位の気持ちだ。
 うつ病の叔父さんにとって、「頑張れ」「頑張って」は禁句なのだろう。しかし、わかって欲しい。決して悪意を込めて、こちら側がはっぱをかけたり、けしかけている訳は微塵もない事を。ただ、人生の応援の意味で、こちらは何気なく発する、日常の、いつも通りの、言葉なのだという事を。
 私など、今は日蓮正宗内に身を置き、信徒の皆々様からの「頑張れ」「頑張って」の言葉を毎日の励みにして、今日まで一生懸命自分なりに試行錯誤を繰り返し、暗中模索を続けて、乗り切って来た。その時の「頑張って」の言葉ほど、どれ程大いに私自身を励まし、助けて頂き、慰められたか?!、これ以上の言葉を、私は未だ知らない。
 創価学会時代、誰一人、私を励まし、面と向かって「頑張れ」なんて声かけしてくれる人など、一人もいなかった。皆、私を無視し続けた。寂しかった。頑張れも言ってくれる人がいない世界、それはつまり、孤立無援、誰一人味方のいない、敵だらけの世界。
 音楽の話だが、ザ・ブルーハーツと言う、私の青春時代に流行った、昭和から平成の頃のバンドブームの時に誕生し、一世を風靡した音楽ロックバンドがある。
 私は、彼らの音楽が大好きだ。中でも、「人にやさしく」という楽曲、歌がある。私は、必ずこれが掛かると、つい涙ぐむ。自分が励まされ、応援されている気がする。
 ブルーハーツの歌は、飾らずに素朴で、粗削りだが繊細でもあり、聴く者を素直に感動させ感じ入らせる。唸る程に、歌の文句を噛み締めて聴きたい歌が多い。
 その中で、彼ら、彼の、作詞作曲の甲本ヒロト氏は、かくの如くに思い入れのある声で、聴く人を励ますかの如くに歌い切る。
 『人にやさしく』(THE BLUE HEARTS 作詞甲本ヒロト、作曲甲本ヒロト)にも、「がんばれ」と甲本氏がエールを送っている。
  頑張れ、何と有難い言葉だろうか。
 さて、「今、頑張れ!を言いたい人は?」の答え。それは、世の全ての人々に対してであり、私の家族にも、自分自身への応援歌としても、日々を闘う市井(しせい)の人々に「がんばれ」を是非とも言いたい、言わせてくれ、否、どうか言わせて下さい。
 みんな、目の前の事にめげずに負けずに、がんばれ!!!

そんなに創価って良い教えなのか?!―怖ろしい異流義の教団達

2017年08月11日 11時13分54秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
創価学会の教えは、日蓮正宗との法論でも負けている。仏教上の三宝で彼らは間違い、狂い、おかしくなっている。そこを突けば、彼らは尻尾を巻いて逃げてゆく。教義上の欠陥を抱えた、尻切れトンボ、創価学会。エンジンのない車か飛行機と同じで、将来必ず空中分解するしかない愚か者宗教、創価学会。
 日本史上、鎌倉時代以来八百年の歴史を誇る伝統宗教の日蓮正宗と、要するに新興宗教の、たった数十年の昭和の頃からの創始の創価とは、初めから勝負はついている。池田の好きな、勝負、勝ち負けに異常にこだわる、勝って勝って勝ちまくるのが創価学会なんだろ。やい、創価。だったら一回ぐらい勝ってみろよ、本当に!このおたんこなすのコンコンチキめが。
 創価の賞味期限はとうに切れた。創価の最盛期は、日蓮正宗の外郭団体の時であり、今の創価は、池田の私兵団体、イケダファンクラブと化した、終わった団体、オワコンだ。そこに居続けたって、何の功徳もなく、心ある、思い当たる人達は、大挙して、皆、日蓮正宗に移籍し続けている。
 私も今年の二月に創価に脱会届をお寺に出してもらい、創価を辞めたが、後から聞くと、かなりの数の創価脱会者が日蓮正宗に多くの方々が居る事に気付く。私や貴方一人ではないのだ。実に多くの方々が創価を脱会し続けている。大石寺に行けば判る、法華経独り大繁盛の深い意味が、必ず判る!!
 私にとって、最大の辞めたきっかけは、あの戒壇の大御本尊様を否定したのが大きかったですな。まさか、そこまで創価が踏み切るのか?!そこまで学会が馬鹿だとは思いも寄らなかった。それ以外にも、創価の謗法の、業罰、業障、罪障が余りにも如実に実生活に表れて出て来て、苛まれ悩み苦しんで来た自身の罪業深さを知るにつけ、これは、この創価学会と言う宗教は、とてもじゃないが、日蓮大聖人の仏法とは乖離(かいり)し過ぎていて、単なる邪教邪宗の一派に過ぎないと文証・理証・現証の上からも、次第に確信して行ったのが大きい。
 あのままやり続けて途中で気が付かなかったら、確実に私の場合は、ろくな生き方も出来ない、というか堕地獄の罰の業火でとっくに死んでた筈。
 大御本尊様を否定するのがいかに愚かかは、火を見るよりも明らか、であり、創価自身の依って来たる由来や歴史までをも否定する愚挙・暴挙である。創価学会がいよいよ邪教化へのカウントダウン、元々邪教だったが、大御本尊をその教えの拠り所、根拠にしていただけでもまだその宗教の価値があったのに、何で自らそれを捨て去ったのか?愚かとしか言いようがない。
 それでは、日蓮正宗を同じく裏切り分派した、異流義の顕正会・正信会にも劣る。顕正会ですら、彼らは間違いの根本の、日蓮正宗もそんな立場には立たず、歴代の猊下様方が否定し尽くして来た、とっくに時代遅れの、なぜか「国立戒壇」のただその一点に今だにこだわっているが、その反面、大御本尊を畏敬・尊敬し恋慕する心だけは、彼らは戒壇の大御本尊様を拝謁する事は、新興宗教教団と化し、日蓮正宗からも破門され(同時期に正信会、のちに創価学会も破門)、邪教を旗揚げした会長浅井が邪義を構えるので叶わぬが、彼らは仏壇のニセ本尊ではなく(今ではニセ本尊も拝むと言う)、五座三座ではなく一座だが、毎日大石寺に向かって遥拝して一応は日蓮正宗の信仰の一部は形骸化はしているが、残している。大御本尊否定・ニセ本尊配布の邪教創価学会よりはまだましだ。
 聞く所によると、今では創価以上にその戦闘的で手段を択ばぬ折伏で「折伏の創価」もびっくりの、創価のお株を奪う程の折伏成果を顕正会はあげていると言う。創価の折伏・弘教・布教は今はだいぶ下火で、創価学会は新規入会者はどこも閑古鳥が鳴いていてほとんどゼロであり、新入信者は今は創価の家族一家で新たに生まれた子供・新生児の数を折伏数にわざわざ算入して苦しい教団の家計をやりくりして糊口をしのぐ状態なのだと言う。
 少子高齢化の煽りを受け、幹部達がはっぱをかけて大号令しても折伏数はうまくは増えず、じり貧で、創価学会を辞めて行く脱会者は軒並み増加傾向にあると言う。まさに創価学会ならぬ、「創価瓦解」だ。キャハハハハハハ。
 都議選では何かとズルをやり、数合わせと小池都知事にすり寄るいつもの風見鶏体質で辛勝したが、馬鹿な都民公明の結果であり、現実の上で実際には国政では、公明党は得票数を毎回ごとに派手に減らし続けている。
 あれ程数にこだわり、勝利勝利とのたまい勝ち誇った創価・公明が、旗色が悪くなり、党勢・教勢が衰え、衰弱していく様を、日本国民は、いつかやって来るであろう、池田創価教の教祖・池田大作(池田太作・田吾作・ソンテジャク)の死亡・死去のXデーを皆、いつ来るかいつ来るかと、共に固唾を飲んで見守っている。私も、これからのニュース・出来事を、高みの見物で、何が起きて来るのか楽しみで、何が起ころうと簡単には一喜一憂せず驚かずに、池田一派が何を企んでいるのか、池田創価教の旗揚げから終焉をこの目で見んがため、毎日の新聞・ラジオ・テレビ・ネット等を拝聴・拝見しつつ、凝視し監視しつつ、成り行きを見詰め見守っていきたい。