Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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訪問看護師事務所、ともトラブル~解決法はある筈、妙な自信沸々と沸き上がる、これぞ、妙法の功徳力、流石は日蓮正宗信徒、と言われたいね!

2023年04月30日 18時09分08秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 私は、訪問看護ステーションを利用する身である。その中で、去年の退院時には、私は、精神保健福祉士(PSW)のKさんからの紹介で、ベテランの良い人だよ!、という触れ込みで、Iさんという、看護師さんを直接、紹介された。

 それから、一、二週間もたたずに、そのIさんは、我が家に来られた。

 それから、現在に至るまで、直接の担当、ではあるのだが、ここ数か月間は、そのIさんの家族の看病で、うちに来られなくなった時期があった。

 そこで、代わりに登場したのが、S・Kさんという看護師だった。
 この人は、年も上で、皆さん、私は、年上の看護師と言うと、怒られるという感じしか抱かないので、電話口で、正直怖いというと、コワくないヨ、楽しみにしていて、同じくベテランだから、という。

 それで、服薬管理をそのS・Kさんがやったが、まず最初に、その日の夜の薬の飲み薬を、薬の包装に書かずに、間違えていた。これをまず、私は指摘した。

 それに対して、その事務所は、一言も、謝罪は一切、無かった。

 それから、私のうちに、そのS・Kさんは上りに来るのだが、世間話ばかりをして、肝心の、血圧測定や、体重、体温、酸素濃度、等々を、いつもと言っていい位、省いて、省略して、ただ、世間話ばかりをして帰って行ってしまう。

 それも、私は、最初の内は、そのS・Kさんは、学歴の話が大好きみたいで、私も、受験時代の悩みや、成功体験等々を得意になって語っていたが、その内、そんな話にも、飽きては来るわな。もう、学校、学校であり、その人は、福島県立田村高校(通称田高、でんこう)卒業、出身者であり、そこは、三春町や、田村郡一、いちばん頭の良い学校らしく、自分にもそれなりに自信がありげに語っている。

 うちでは、私が安積高だというと、或る時などは、wainaiさん(私)がカッコ良いんじゃない。安積高校がカッコ良いんだ、とこうである。

 それは何を話したかというと、私が、高校時代に、他の部活は皆、街中の、安積高校の本校、郡山市開成何丁目にある、我が母校に、所属していて、そこで体力をつける為にそこのグラウンドを使って練習した。

 けれども、私ら、硬式テニス部は、本校にはグラウンドが無くて、わざわざ飛び地になっている、我が家の近くの、郡山市大槻町の、現在もある、庭球場まで行って、そこで、テニスの練習をしていた、といった私の受け答えが、それ、突如、最初に、そのS・Kさんが言ったのは、感嘆の声を上げて「かっこいい~!」というので、最初、私がカッコ良いと言われたのかと(誰だって、主語が無いのだから、そう思うじゃないですか?)錯覚して、思っていたら、「wainaiさんじゃなくて、その、安積高校という、学校が、カッコ良い、という話。」とわざわざ、そんな事を言われたので、こちらはガッカリも来たし、その相手も意地悪だとも思ったし、本当に、カチンとも来た。それが、当然だと思いませんか?第一、失礼にも、程がある。それが他人様に対する、礼儀か、と。言葉使いをもっと、正して、選んで頂けませんか、と。それが良識ある、大人の態度では御座いませんか?

 何事がカッコ良いんだか、さっぱり分からない話。キツネにつままれたような話。詰まりは、何を言いたいのかも、判然とせず、ただ、私に悪意を持っていて、この看護師が、私がカッコ悪い、と言いたいのだけは、すぐさまハッキリ分かり、釈然ともせず、憮然として、ただ、私としては、そう言うもの、事なんだと、そう、了承した。そうとハッキリ、私は、承りました。実際、結局、結果、そういう、話なんだと。私は不細工なんだと。ハッキリ言うと。そういう事。

 彼女、S・Kさんが、私を蔑視したな。これはイジメだな。と私は即座に思い、理解した。

 私は人生上、不細工な人(言っては悪いが、事実なので、しょうがない)に、モテたためしがない。いつも、美人さんか、かわいいタイプの人から、好かれるタイプだった。だから、無理して媚びる必要性は、全く無い。

 代わりに来てくれる人が居るならば、ウェルカムで、歓迎して、迎えますよ、ハッキリ言ってねえ。こんなの。

 私も、自分が、学歴の話をすると、どうしても自慢話のようになってしまうジレンマに、いつも、一人悩んでいた。

 そうだからって、その以前に来ていた、Iさんは、私と最後に訪問看護を受けた時に、Iさんと、私はどうしても、その時の模様を思い出せないのだが、ひと悶着、折り合いがつかずに、ホントにあったかどうかも分からずじまいだが、帰りに、どうやら、もう来なくて結構、バイバイ、と私の方から言ってしまったようなのである。これが今日、このブログのタイトルともなっている、トラブルの原因である。それが事実ならば、私は謝る用意がある。今すぐにでも、謝りたい所存である。

 しかし、Iさんは、相当優秀な看護師であり、私の、星ヶ丘病院にてもらって来た、「私のクライシスプラン」という、病気が軽い時、中位の時、重い時、の三つに分けて、その時の、本人の受け取り方、自分で出来得る事の実践法、第三者、時には周りや医療、病院関係、福祉関係者へのSOSの出し方、それら機関の、関わり方等々を、逐一、その、星ヶ丘でもらって来た様式の紙に、一筆入れて書く事を、彼女は最大限、いつも毎回、応援して、勧め、援助してくれていた。常に私の危機意識を本気で思ってくれてた、私の最大限の、理解者、大恩人、なのである。
 
 だから、去年の年末にも、『今年の(その時の時点で、来年の)三大目標』と銘打って、今年のスタートが無事に切れたのも、彼女、Iさんのお陰で、非常に助かっていたし、その、星ヶ丘のPSWのKさんが言う通りの、何でもそつなくこなす、本当の意味の「ベテラン」の称号を、彼女には私も送りたいし、Iさんは、絶対に、手抜き、手抜かりはせずに必ず、血圧、体温、酸素濃度、体重、これら、患者の数値の評価に対して、今までサボって帰った事など、一切なかったのである。この一事を見ても、どれだけ優秀な看護師かが判ろうというもの。

 しかし、私は、そのIさんに対して、自分の詰まらぬ、何の感情をその時いだいたのか、全く分からないが、そんな言説、「バイバイ、じゃあサヨナラだねえ」などと、この大恩人に対して、文句というか、帰り際の捨て台詞として、こちら側から声を発してしまっていた。

 私はいつもそうなのだ。不用意な発言から、何人の友を無くして来た事だろうか。そして、又、誰も、皆、居なくなってしまった。最後は、そんな寂しい人生ばかりを、このわたくしは送っては来たのだった。そうやって、後悔ばかりをする、人生なのだ、この私の人生とは。この私は、極めて今、不幸である。それらの一点においてだけは。

 もう、自分でも、自分自身が嫌になる程、自己嫌悪で、どうにかなりそうな程、耐えきれない。その不用意な言葉が、時限爆弾の如くに、炸裂してしまう。

 一歩、待ってみて、その言葉、この言葉、あの言葉を、今、発していいのかな、大丈夫ならば、言ってみても良いが、ダメな場合はダメ!、との、自己の認識、これは、言葉を選ぶ、ほとんど自分なりのセンス、美学、美意識、美的感覚の問題であり、美醜の見分けも付かない、その場の分を弁えない、私は醜悪、醜く酷い大悪党の人間なのである。そこの所の、人様に失礼さを絶対見せない、教育を受けて来なかったのか、はなはだ、心の不自由な、私の不徳と致す所、所存である。

 もう人生も、後半戦、半ばに差し掛かり、こんな調子で、子供じみた、情けない大人では、心許なく、どうしようもなく、自分でも情けなく、ここで愚痴っていても、結論も出ずに、ぐずぐず言ってるだけである。
 
 ここは、私がお得意の、御祈りの出番かも知れぬ。そうだ。日蓮正宗の、御本尊様への、ひたぶるの、自由闊達な、勤行唱題行、仏道修行が、それだ。そうだ。それしかあるまい。それに徹し、行おう!やってみるだけの、価値が有る筈だ!

 これ以外以上に、いまだに、解決の方法が見当たらずに、見つからない。現罰、現証として、結果が、因果の理法で、こうやって、ちゃーんと出ているんだからそれを改めるには、自己反省、悔い改め、自己懺悔、自己をとことんまで見詰めて、見詰め返して、他者をいたわる、慈悲、慈愛の、慈しみの修行法が、『法華経』(妙法蓮華経)による、自行化他行に他ならぬ。そして末法の最終解脱が、これら釈尊の教説の究極たる、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様の極説中の極説の御題目『南無妙法蓮華経』、これのみ、これ以外に、方法などは全く無い。有り得ないのだ。

 詰まりは、結果結論が、ズバリ、「宿命転換」「宿業転換」「転重軽受」の法門なのである。いわば、日蓮正宗の肝、極説中の、極説、である。これがなかったら、日蓮正宗の御教えの全てが成り立たなくなりそうな程の、重要な御教え、法門である。最後は、絶望に打ちひしがれた人々が、最後、最終的に訪れる、という最高度の法門なのだ。

 絶対に、それらこれらの、外敵外部の、それこれの魔と、己心の魔とを、打ち破り打ち勝って打ち砕いて打ち滅ぼして見せる。私は負けない。仏様も決して魔には負けはしない。

 仏様の、人法一箇の、御本仏宗祖日蓮大聖人様・御本尊様とも共に、それに、諸天善神の加護の下、有難くも、守護して頂き、私自身も獅子奮迅の闘いで、この魔に打ち克つ所存、構え。必ず、勝つ。勝利の凱歌を、勝どきを、私は必ずに、上げる。上げて見せる。

 創価学会第二代会長の、戸田城聖先生も仰られていた。「困った、大変だ、もう終わりだー、と思ったら、”しめた”と思え!(趣意)」と。

 自分がピンチにいる時こそ、実は最大限の、チャンスの時にいるのだ。「ピンチはチャンス」というではないか。

 ハッキリ言って、我が家に於いては、父が交通事故に遭って半身不随になった時、及び、私自身も、家の隣の沿道の道路を走る大型バスに轢かれて死線をさ迷い、重傷を負った交通事故等々、この他の、我が家を襲った数多の大難に比べれば、こんな事は、こんなちっぽけな事共は、小難も小難、難の内にも入らない位、程の、大難なんて呼んでいたら、大罰食らう位、取るに足らない、小さな難に過ぎぬ。そう見抜いたり。
 
 とにかく、ここは、大人になって、全ての責任を取る事を全うしつつ、君子を目指して、人格者を目指して、ただ、人生を無為に過ごすのではなくて、有意義に過ごしたい。そう願うのみ。

 人間関係、人生上のトラブルなんて、跳ね付けてやれる位の度量、クソ度胸が必要だ。簡単カンタン。大丈夫大丈夫。

 御経典・法華経即ち、妙法蓮華経・如来寿量品第十六の一節、「衆生所遊楽」の御言葉。全ての事象をまーるく収め、解決出来得るという、全ては一つの、一仏乗に収れんし、収束するという、妙な自信・プライドが、成し得る限りの智慧というものが、決して慢心ではなく、正直に、ウソ偽り等一切なく、自分自身に於いては、悠々と、懇々と尚且つ、自身の中に出でて来ているのを実感する。それはまるで、智慧が盛んに湧き出ずる、泉のようだ。懇々と。とめどなく。溢れる如くに。

 私にとり、コワいものなど、なんにもない。ただ、今を誠実に生きるのみ。ウソ偽りなど、寸分も、入り込む余地などどこにもない。ただ、誠に、真実一路に、生き切るのみ。それが私の人生。大仏法大仏教哲学・日蓮正宗と分け入り、捧げ尽くして、共に歩む人生に誠に他ならない。

以上。よしなに。wainai


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