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母は、大人の三輪車しか乗れなかった。子供の頃から東京生まれ東京育ちで、江戸っ子は、特に娘は、自転車等に乗れない人が多かったようだ。
その後、母は移動手段に、車を思いつくも、中々その実現には至らない。
父の提案で、大人用の三輪車というものがあるから、それに乗ってみないか、という話があり、自転車屋さんで大人の三輪車を物色した。
その場で跨り、どうやら乗れそうだと踏んだ母は、その三輪車を、神奈川県川崎市在住時代に、とうとう買い求めた。
そうして、父は自転車乗りの名手だったが、いかんせん、交通事故で自身が負傷し、一時は寝たきりにもなり、半身不随の身であり、自転車には勿論、後半生、乗れなかった。
しかし、私への、小学校に上がる前の児童時代に、父親として、優しく手ほどきをしてくれて、一人前に自転車に乗れるように、マンツーマンで自転車教育を施してくれた。私が今日、一人前にも、自転車が乗れるのは、この父のお陰である。
そうして、母と私は、父に感謝しながらも、二人で仲良く、自転車(と大人の三輪車)に乗って、どこまでも出掛けた。
酷い時などは、母の冒険心も手伝い、神奈川県川崎市中原区が我々の住まいだったが、そこを遥かに飛び越して、区をいくつも跨いで、何と、遠い地にあった川崎市立日本民家園の方まではるばると我々は自転車と三輪車を飛ばして、往復した事も有った。
あの頃は、母もうんと若かった。
その後、福島県郡山市に昭和五〇年代半ば越してきて、私はもっといい自転車、五段式の、変速ギアの自転車を買ってもらう。母には、まだ若さは残ってはいたが、老眼が進み、髪にも白いものが目立つようになってくる。
そうして、私が中学の時に、一緒に母と、四号バイパスの、側道の、歩道・自転車道を、冒険がてら、視察がてら、出来たばかりの道路であったので、行ってみて来よう、となった。
その時、私は、母の三輪車のスピードが、私の小学生の時のスピードよりも、えらく遅く感じていた。どんどん母の姿が私の後ろの、背後へと引き下がってしまって、今では、遠く小さく私の目には映り、どんどんと引き離されてしまっていた。
「お母さん、遅いよー」と呼んでも、一切聴こえないみたいだった。これにはあきれると言うか、参ったなア、との感想しか持たなかった。それが母の老化に起因するものだとは、この時の私には知る由も無かった。
母はこの時、五十代位であっただろうか。今の若い人の五十代には比べるべくもないが、母にも老化の波は確実に襲いつつあった。
そうして、母は、六十代になっても、今度は、自動車免許を五十代半ばで取得して二刀流で、自転車にも、今まで通りの三輪車だったが、立派に運転していた。
しかし、私との自転車での運転は、よく行ったが、或る日、私は不満を漏らした。
曰く、お母さんと自転車で行くと、遅いお母さんに自転車の歩調を合わせなければならず、お母さんはとっても遅くて、こちらは、コマが回る時に、周り終わるみたいに、スピードが出せないから、私のハンドルが左右に揺れて危ない。もう、お母さんとは、自転車で一緒にどこへも行きたくはない、と。
と、こう言って、答えてしまった。
この親不孝な息子の言葉には、母なりに、非常にこたえたのではないかと私は母の身を案じつつ、今も思っている。全く、バカな息子だ。
それ以来、母は、なるたけ、三輪車は引っ張って乗る、押して歩いて動かすのみとなり、もっぱら、車での楽な移動を心掛けて行った。
それから、その車も廃車となり、年月が過ぎて、母は今、高齢者施設で毎日を過ごす。
あの時、私に嫌味を言われた事なんて、とっくに忘れてしまっているかのように、今では施設に私が向かうと、人一倍の笑顔と、熱心なおしゃべりに花が咲く。
あの時の、母への酷い仕打ちを思い出す度に、何かむごたらしい、親不孝だった私のあの頃の日々を今だに反省し、自身を罰し、鞭打ち、謝りたく、不孝を詫び、責め続ける毎日の、不幸な私がいる。
以上。よしなに。wainai
私は親不孝なのは確かなので、必ず親孝行を、今までの不孝息子の汚名返上で、必ずや、母には幸せになって頂けるように、死力を尽くして頑張ります。
とにかく、こんばんは、真心の御言葉、有難う御座います。
以上。よしなに。wainai