食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)

2021-06-27 18:40:22 | 第四章 近世の食の革命
コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)
モカ・コーヒー」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。でも、モカ・コーヒーの名前の由来については、よほどのコーヒー好きしか知らないと思います。

モカはアラビア半島の南東部のイエメンにある港町で、15世紀末からコーヒー貿易の拠点となっていました。そして、このモカ港から積み出されたコーヒーのことをモカ・コーヒーと呼んだのです。

東インド会社もモカ港でコーヒーを仕入れてヨーロッパに運びました。そしてこれが世界中にコーヒーを広めるきっかけとなりました。

ちなみに、イギリスの飲み物と言えは「紅茶」を思い浮かべますが、紅茶がイギリスで広く飲まれる以前はコーヒーがたくさん飲まれていました。18世紀の前半には、ロンドンとその周辺部に合わせて8000軒ものコーヒーハウスがあったと言われています。

今回はイギリスとオランダの東インド会社によるコーヒー貿易の様子をたどりながら、コーヒーの伝播の歴史を見て行きます。


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紅海をはさんだモカの対岸にはコーヒー(アラビカ種)の原産地のエチオピアがある。14世紀の終わり頃に、エチオピアからアラビア半島南東部(現在のイエメン)にコーヒーノキの苗木が持ちこまれたと考えられている。そして、エチオピアに加えてイエメンもコーヒーの一大産地になった。



エジプトの記録には、15世紀のイエメンでスーフィー(イスラム神秘主義者)がコーヒーを飲んでいたという記述がある。スーフィーとは、イスラム教の宗派の一つで、神との精神的な一体化を第一とした人たちのことだ。彼らは一晩中神の名を唱え続けるという修行を行うが、この時にコーヒーが眠気を覚ますのに役立っていたようだ。

1517年にオスマン帝国がエジプトやイエメンを支配していたマムルーク朝(1250~1517年)を滅ぼすと、コーヒーを飲む習慣はオスマン帝国に持ち込まれて定着した。そして16世紀の後半になると、首都のイスタンブールでは多くのコーヒーハウスが生まれたと言われている。

オスマン帝国と交易を行っていたヴェネツィアの商人はコーヒーがヨーロッパでも受け入れられると考え、16世紀末からコーヒーの貿易を始めた。同じ頃にオスマン帝国との貿易を開始したイギリスのレヴァント会社もこのコーヒー貿易に参画した。そして、ヴェネツィアとレヴァント会社は協力してコーヒーの貿易を行うようになったのである。

17世紀に入るとイギリスとオランダで東インド会社が設立され、船団が喜望峰を回ってインド洋にやって来るようになった。主な目的地はインドや東南アジアだったが、その途中で補給や船の修理のためにモカの近くに寄港した。ここで東インド会社の人々はモカ港のコーヒーに出会ったと思われる。

香辛料ほどではなかったが、彼らにはコーヒーもとても魅力的な商品に見えたようだ。そこで現地のトルコ商人と交渉を行った結果、コーヒーの貿易を開始することに成功する。これ以降、モカ港から大量のコーヒーが船でヨーロッパに運ばれるようになり、また価格もヴェネツィア・レヴァント会社のコーヒーよりもずっと安くなったことから、ヨーロッパ中にコーヒーが出回るようになった。

このようなコーヒーの安定的な供給の結果、1645年のヴェネツィアでのコーヒーハウスの開店を皮切りに、ヨーロッパの各地でコーヒーハウスが誕生するようになった。例えば、1650年にはロンドンで、1666年にはアムステルダムで最初のコーヒーハウスが開店している。そして、コーヒーハウスは情報交換の場として様々な社会活動の発展に役立ったと考えられている。

例えば、イギリスでコーヒーハウスが誕生したのは、ピューリタン革命(清教徒革命)によって王政が倒れた頃で、コーヒーハウスは社会の中心となっていた市民の情報交換の場となったのだ。コーヒーハウスには新聞雑誌が置かれ、また議論が戦わされることで「世論」が形成されたと言われている。

さらにコーヒーハウスは、店ごとに特定の職業の顧客を扱うように専門化することで、株式会社や保険業を誕生させることになった。例えば、保険業で有名な「ロイズ」の前身もコーヒーハウスだ。ロイズは東インド会社の関係者を専門の顧客とした結果、海上保険を売り買いする場として発展して行ったのだ。

このようにイギリスのコーヒーハウスは、政治・経済・文化・芸術・報道などの発展において極めて重要な役割を果たしたと考えられている。しかし18世紀後半になると、専門化が進んだコーヒーハウスは会員制のクラブとなり、またコーヒーよりも茶が飲まれるようになった結果、イギリスのコーヒーハウスは急速に衰退して行った。

さて、一方のオランダだが、オランダ東インド会社はモカ港からの貿易を行うだけでなく、自前でのコーヒー生産に乗り出した。

コーヒーノキの海外持ち出しはオスマン帝国によって厳しく取り締まられていたが、インド人が密かに苗木を持ち出し、南インドでの栽培に成功していた。オランダ東インド会社は1658年にこの南インドから苗木をセイロン島に持ち込み栽培を開始した。しかし、この栽培は最終的に失敗する。

それでもオランダ東インド会社はあきらめずに、17世紀の終わりにはジャワ島で栽培を始めた。今度の栽培は軌道に乗り、1711年にはジャワ産の最初のコーヒーがオランダのアムステルダム港に到着した。

ジャワでは現地の農民にコーヒー栽培を強制し、買い取り価格も東インド会社が一方的に決定した。その結果、ジャワ・コーヒーはモカ・コーヒーよりも安価になり、オランダ東インド会社がヨーロッパのコーヒー供給を支配するようになる。

コーヒー貿易でもオランダがイギリスに勝利したのである。


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