今日は、阪神大震災から13年目。13年前、私は、今の病院の入っている県の組織の事務局にいました。医師集めの仕事していました。地震の翌日、9時に事務局長が「水を送るぞ」といって、現れ、30分後に「現地はたいへんだ。医師・看護師を派遣する」と現地とどうにか連絡をとって、また現れました。4人いた事務局員は、みんな、通常の業務をやめ、たきだし担当、物資担当などに分かれて動き出しました。私は、救援車であることを示す赤十字のマ-クを書くためのペンキで大きい布を買いにいきました。その後、カンパを集めるためろに「マスコミに報道依頼」を要請してまわりました。民間病院の私たちの出動が県内では早いほうでした。医師1名、看護師3名、事務兼運転手3名がその日の夜に出発しました。その後10派にわたって支援の人を送りました。今はそんなことないですが、当時、避難所に出来た診療所は、名乗り出た人だけ診察するという傾向だったそうです。内の病院は、常に出かけていく医療だったので。地域を緑の旗をたてて、くまなくロ-ラ-作戦で回ったりしました。私も2度現地に入りました。1回は、日本海鍋をつくりに。もう一回は、ボランテイアに来た医学生の世話をしに。
去年は、妻とルミナリエを見に行って、帰りに長田の街によって帰ってきました。
去年は、妻とルミナリエを見に行って、帰りに長田の街によって帰ってきました。