破砕する古い日記の秋の色
季語:秋の色(秋)天文:秋色(しうしよく)秋の色 秋光 秋のひかり 秋望
※俳句歳時記:秋景色・秋の風色のことである。
和歌では「秋の色」として使い、紅葉や黄葉などの具体的な色を念頭に置く場合が多いが、俳諧になって抽象的に使われることが多くなった。
「秋光」もまた、和歌では「秋のひかり」として使い、月光についていう場合が多いが、今日では陽光に明るさを籠めて秋の風光を賞美する言葉として使われることが多い。
作品の背景:断捨離として古い日記をシュレッダーにかけて捨てることにした。
秋風が吹いて手にしている日記も秋らしいセピア色になっているのに気づいた。
先生の添削:「破砕(はさい)」という固い言葉に、ご自身の決意や覚悟が表れているように思いました。
中七を「日記の」として下五につなげることもできそうです。
また少し趣は変わりますが、「秋さびし」という季語を用いますと、ご心情も加わるように思いました。
添削句を二句あげてみます。
例句Ⅰ:【破砕する古い日記の秋の色】
(や)が(の)になると・・・確かに流れがスムーズになるような感じがする。
例句Ⅱ:【破砕する古い日記や秋さびし】
切字の(や)はそのまま、季語の(秋の色)が(秋さびし)になっただけで・・・確かに心情が加わる。
(秋さびし)が【秋思】の「子季語」ということを知った。
※俳句歳時記:【秋思/しうし】の子季語(秋懐、傷秋、秋容、秋あわれ、秋さびし)→秋の寂しさに誘われる物思い。春は春愁という。
古い日記を思い切ってシュレッダーにかけることにしました。
上京したばかりの18歳の頃から結婚するまでのもので、何冊もありました。
独り暮らしの時(弟が進学のため上京して一緒に住む前)などは大学ノートに1日1ページほど書いていました。
粉砕するにあたってちょっと読んでみると、そこには親元を離れ、ある意味大人として人生駆け出したばかりの、でもいまだに夢見る(乙女?)が居ました。
日記を捨てることに関して、ネット情報をみると、すぐ捨てる人、ずっと持っている人、各人、様ざまでした。
捨てようと思ったのは、もういつ何が起きても(病気とか死とか)不思議ではない年齢になったので、残しておいて読まれては「恥ずかしい」という理由からです。
独り暮らしの時は東京世田谷区の三軒茶屋というところに下宿住まいで、
その後、弟が上京してきてから結婚するまでは、三宿(同じく世田谷区)のアパートに弟と住んでいました。
友達のこと。ゼミの先生のこと。近所に住む4歳年上の人に恋をして失恋したこと。
その後知り合った現在の夫のこと。中学校での教育実習のこと。等々・・・。
結婚して忙しくなり書く時間が無くなった頃までは、よくもまあこんなに毎日、毎日~という感じで書いていました。
読むとやはり懐かしい。「これで青春物、恋愛物が書けそう・・・。」なんて妄想も湧いてくる。
でもやっぱり恥ずかしいので、「捨てよう」と決心を継続。
そんなこんなで遅々として進まなかった作業も終わり、ビニール袋3袋ほどになり、ごみに出しました。
気がつくと季節は秋・・・なのでもしや「思い出を捨ててしまった」とか「失敗してしまった」的な寂しさに襲われるのではないか?
でもよく考えると、時間ができた今、再びこうしてブログを書いている自分は年月が経っても歳をとっても余り変わってないのかもしれません。