皆さんご存知のように、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。
永年の活動が評価されての受賞だと思いますが、その努力を思うと本当に尊敬します。山屋的にたとえたら、ペットボトルから水を垂らして、穂高の屏風岩に穴をあけるような絶望的な努力。それでもあの岩に穴が開くことを信じて活動されているその姿に心打たれます。
タカ長も原爆の閃光をこの目で見ました。その後、タカ長のまわりで起こったことを鮮明に記憶しています。そのことを子細に思い返していると今でも気分が悪くなります。
その思いは被爆者誰でも同じでしょうが、その気持ちにくじけないでご自身の被爆体験を語って来られたことは本当にすごいことです。タカ長の体験など、広島の旧市街で被爆された人の体験から見れば、万分の一に満たないものですが、それでもあの日のことを語ると今でも気分が悪くなります。
タカ長が育った長屋の隣が、大家さんのお姉さんの部屋でした。その部屋に何度も行った思い出がかすかにあります。タカ長の人生最初の思い出と言えるようなかすかな思い出です。
そのお姉さんはこのような勇ましい(?)姿ではなく、タカ長を抱いて絵本の読み聞かせをしてくれる優しいお姉さんでした。
そのお姉さんが忽然と姿を消しました。親父から「女学校に通っているお姉さんを探しに行った」と聞いた記憶はあります。火が燃えさかる町を歩いて倒れそうになった、と聞かされましたが、お姉さんの消息は誰からも聞いていません。
子ども心にも何か感じていたのか、大きくなってからも、親にも隣のご両親にもお姉さんのことは聞いていません。
あの日、忽然といなくなったので、お姉さんの顔は分かりません。タカ長には顔のないお姉さんなのです。
タカ長はこのような形から畳の上に腰を下ろした格好で、子どもに絵本の読み聞かせをしていました。
この姿勢は、あの頃お姉さんからして頂いていたことを踏襲しているのではないか、と本気で何度も考えたことがあります。遠い遠い記憶なので本当のことは分かりませんが、自分では間違いないことだと思っています。
優しかった隣のお姉さんが忽然と姿を消した。タカ長には一番悲しいあの日の記憶です。
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