帰省している次女のリクエストで、昨日の朝、氏神様にお参りしました。
この氏神様は幼少のころのタカ長の遊び場で、野球などよくしたものです。その前がホームベースで、一応四角のダイヤモンドをつくることが出来ましたが、外野のスペースはレフト側に少し取れるだけの野球場でした。
明治39年に明治政府の勅令で、1村に1神社を置くことになりました。それまではタカ長の育った「八幡村」にも多くの神社がありましたが、直接の合併対象になった「八幡(やはた)神社」には次のような言い伝えが残っています。
神功皇后が瀬戸内を航行したとき、今の鈴が峰西尾根の下のほうに立ち寄られて、そこに八幡の神を祀られた。その神社と今の八幡神社が昭和3年に合併して今の八幡神社になり、八幡地区の氏神様になりました。
当時の海岸線はそのあたりにあったのでしょう。その神功皇后のご主人様が仲哀天皇、と言うことを知ると、タカ長たちが遊び場としていた神社がすごい神社であることが分かってきます。
タカ長が次女の前で講釈をたれたのは、そのような歴史の話ではなくてあの神紋のことです。黄色に見えているのが八幡神社の神紋ですが、ご覧のように「右三つ巴」になっています。全体的には数少ない神紋です。
八幡神社の歴史と全体的には少ない「右三つ巴」の神紋にどのような関係があるのかタカ長は勉強していません。
クローズアップするとこのようになります。神紋は「右三つ巴」ですが、右側の軒先瓦の紋は「左三つ巴」で、神紋とは違いますが、これには深い意味はありません。
左三つ巴の軒先瓦は大量につくられていますが、八幡神社が右三つ巴の軒先瓦を使うとすれば、汎用品が無いので特注する必要があります。特注するためには多額の資金が必要になりますが、小さな神社にはその資金が無いので、軒先瓦は汎用品で代用した、と言うわけです。
次女とそのような話をしながら八幡神社を歩きました。次女が幼少のころこの近くに住んでいたので、次女には次女の思い出があるのでしょう。とてもいい散歩になりました。