昨日の安田の里は深い霧の中でした。


修羅の写真展 良かったですよ。

印象に残ったのは
小田さんの晩秋雨情、青い湖岸
中田さんの梅雨の女神、艶美
渡辺さんの水面の朝
油谷さんの雪月花
福岡さんの全部 です。
日曜日までです。
奈良に行ったついでに唐招提寺に行きました。
今日から3日間は秘仏鑑真和上像の公開日です。
前日はすいているのと天気がいいので金堂を見て来ました。
何回も行っているので、今更という感じですが、
国東半島の富貴寺大堂との比較がありました。
規模は違うのですが、内陣も含めて
富貴寺大堂の方が美しいと直感しましたが、
並べてみると甲乙付け難いです。
唐招提寺金堂

富貴寺大堂

九州の旅18 知覧1
ホテルから国道に出ようと裏道を通って行ったのですが、
住宅地に入ってしまった。
迷ったのです。
迷った場合、和尚はどうするか。
10万一の地図を見ても現在位置は分かりません。
太そうな道をそのまま走ります。
大体の方向は分かっているので、標識があったら、それに従う。
標識がなく、川などがあったらしめたものです。
川は下流(海に)に流れます。
堤防をひたすら下ります。
今回は谷山に出ました。谷山は鹿児島では有名な地名です。
あとは国道に合流するだけです。
こんな事は何回もありました。
知覧は今回の旅の一つの目的地でもありました。
平成の大合併で知覧町は南九州市になってしまいました。
平川から主地道を標識に従って知覧まで来ました。
本通りには電柱がありません。

武家屋敷を売りにしているので、環境は整備されています。
歴史的風景が多い奈良と比較すると、
奈良はまだ歴史的風景整備途上地域ですね。
主地道の南側が歴史的風致地区らしい。
最初に目にしたものは“おめでとう”のポスターです。
発光ダイオードでノーベル賞の名古屋大学の大崎教授は知覧出身です。
ちらんかった。
武家屋敷は明日にして、今日は知覧特攻平和会館です。

平和会館にはひっきりなしに入場者が訪れています。
特攻隊員の遺品や家族とのやり取りの書簡(手紙)、遺書がメインになっています。
軍の無謀な作戦を指弾するのは簡単ですが、
20歳に満たない少年の純真な“こころ”は涙なしには読めません。
特攻基地は九州や台湾各地にありましたが
知覧の基地が戦死者最大でした。
1036名中
知覧が402名
健軍(熊本)が127名
万世(加世田)が120名 多い順です。
特攻兵像

特攻機レプリカ

復元された三角兵舎

海から引き上げられた特攻機0戦

中は撮影禁止です。外からガラス越しに撮っています。
残っている給水塔

高倉健主演の映画ホタルのロケ地

特攻隊員のエピソードより(転載)
「藤井一少佐は歩兵科出身で熊谷飛行学校の中隊長として少年飛行兵の精神教育を担当していました。
教え子達が戦死する中、自らも特攻を志願しましたが、
航空技術の専門ではなかったので願いは聞き入れてもらえず、
特攻への志願、却下がくり返されました。
そんな中、夫の固い意志を知った奥さんは、
『私達がいたのではこの世の未練になり、思う存分の活躍が出来ないでしょうから、
一足お先に逝(い)って待っています』という遺書を残し、
長女と次女を連れて飛行学校近くの荒川に身を投げました。
妻子の死を無駄にしまいと藤井少佐は再度、特攻への志願を強く訴えました。
軍でもこうした事情を考慮した結果、特攻志願を受理することとなりました」
これを美談ととるか、むごいととるか、色々ありましょうが、
私は
これを読んで(聞いて)複雑な気持ちになりました。
涙を誘うというより、おろかと言うかむなしさをを感じました。
隣にある知覧ミュージアムにも行きました。
郷土博物館です。
ここには誰も来ません。
ここで重い心は、少し軽くなりました。
武家屋敷近くに軍指定の食堂があります。(まだ残っています)

富屋食堂です。
特攻隊員に“おかあさん”と慕われた鳥濱トメさんの経営した食堂が
ほたる富屋食堂として保存されています。
同じく富屋旅館

中に隊員のめい福を祈った観音堂があります。


修羅の写真展 良かったですよ。

印象に残ったのは
小田さんの晩秋雨情、青い湖岸
中田さんの梅雨の女神、艶美
渡辺さんの水面の朝
油谷さんの雪月花
福岡さんの全部 です。
日曜日までです。
奈良に行ったついでに唐招提寺に行きました。
今日から3日間は秘仏鑑真和上像の公開日です。
前日はすいているのと天気がいいので金堂を見て来ました。
何回も行っているので、今更という感じですが、
国東半島の富貴寺大堂との比較がありました。
規模は違うのですが、内陣も含めて
富貴寺大堂の方が美しいと直感しましたが、
並べてみると甲乙付け難いです。
唐招提寺金堂

富貴寺大堂

九州の旅18 知覧1
ホテルから国道に出ようと裏道を通って行ったのですが、
住宅地に入ってしまった。
迷ったのです。
迷った場合、和尚はどうするか。
10万一の地図を見ても現在位置は分かりません。
太そうな道をそのまま走ります。
大体の方向は分かっているので、標識があったら、それに従う。
標識がなく、川などがあったらしめたものです。
川は下流(海に)に流れます。
堤防をひたすら下ります。
今回は谷山に出ました。谷山は鹿児島では有名な地名です。
あとは国道に合流するだけです。
こんな事は何回もありました。
知覧は今回の旅の一つの目的地でもありました。
平成の大合併で知覧町は南九州市になってしまいました。
平川から主地道を標識に従って知覧まで来ました。
本通りには電柱がありません。

武家屋敷を売りにしているので、環境は整備されています。
歴史的風景が多い奈良と比較すると、
奈良はまだ歴史的風景整備途上地域ですね。
主地道の南側が歴史的風致地区らしい。
最初に目にしたものは“おめでとう”のポスターです。
発光ダイオードでノーベル賞の名古屋大学の大崎教授は知覧出身です。
ちらんかった。
武家屋敷は明日にして、今日は知覧特攻平和会館です。

平和会館にはひっきりなしに入場者が訪れています。
特攻隊員の遺品や家族とのやり取りの書簡(手紙)、遺書がメインになっています。
軍の無謀な作戦を指弾するのは簡単ですが、
20歳に満たない少年の純真な“こころ”は涙なしには読めません。
特攻基地は九州や台湾各地にありましたが
知覧の基地が戦死者最大でした。
1036名中
知覧が402名
健軍(熊本)が127名
万世(加世田)が120名 多い順です。
特攻兵像

特攻機レプリカ

復元された三角兵舎

海から引き上げられた特攻機0戦

中は撮影禁止です。外からガラス越しに撮っています。
残っている給水塔

高倉健主演の映画ホタルのロケ地

特攻隊員のエピソードより(転載)
「藤井一少佐は歩兵科出身で熊谷飛行学校の中隊長として少年飛行兵の精神教育を担当していました。
教え子達が戦死する中、自らも特攻を志願しましたが、
航空技術の専門ではなかったので願いは聞き入れてもらえず、
特攻への志願、却下がくり返されました。
そんな中、夫の固い意志を知った奥さんは、
『私達がいたのではこの世の未練になり、思う存分の活躍が出来ないでしょうから、
一足お先に逝(い)って待っています』という遺書を残し、
長女と次女を連れて飛行学校近くの荒川に身を投げました。
妻子の死を無駄にしまいと藤井少佐は再度、特攻への志願を強く訴えました。
軍でもこうした事情を考慮した結果、特攻志願を受理することとなりました」
これを美談ととるか、むごいととるか、色々ありましょうが、
私は
これを読んで(聞いて)複雑な気持ちになりました。
涙を誘うというより、おろかと言うかむなしさをを感じました。
隣にある知覧ミュージアムにも行きました。
郷土博物館です。
ここには誰も来ません。
ここで重い心は、少し軽くなりました。
武家屋敷近くに軍指定の食堂があります。(まだ残っています)

富屋食堂です。
特攻隊員に“おかあさん”と慕われた鳥濱トメさんの経営した食堂が
ほたる富屋食堂として保存されています。
同じく富屋旅館

中に隊員のめい福を祈った観音堂があります。