マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

「老い」を考える

2006-09-19 11:03:43 | 教会の風景
今回のH先生ご夫妻の騒動と周囲で奔走している教会員の方々を客観的に見て思うことがあった。
なかなか現実を直視することは辛いこともあるし、考えないで済むならばそれはそれでいいのかもしれない。
しかし、いずれ自分も老いていく(40年、50年先のことではあるが・・・)わけなので、自分のことは自分でけじめをつけなくてはならないと考えさせられた。

「大丈夫ですから・・・」というのがH先生の口癖のようだ。
それはご本人が本心からそう言っておられるのだと思う。
周囲に心配をかけたくないという心配りの現われかもしれない。
あるいは、自分はまだできるから人の手を煩わせる必要がないと思っておられるのかもしれない。

しかし現実問題として、教会員の方々はH先生ご夫妻の日常のお世話や今回のような事態で心配しなければならなかった。
ちょうどお子さんがいらっしゃらないという環境も、教会員の方々に依存するという構図ができてしまうのに影響を与えたのだと思う。
ちょうど教会員の方々が、それを担うことができたのが幸いだった。
しかし、当のご本人たちはあまり気付いていらっしゃらない。

ちょうど自分の親の介護にかかわっているRさんの話を聞いた。
Rさんのお母さんも「大丈夫。」とよく言っていたそうだ。
でも全然大丈夫ではなかったとのこと。

年齢とともにできなくなることも多くなるのは仕方が無い。
しかし、それを認めることができないと本人もそうだが周囲の人も困る。
できないことはできないと認めて、助けを受けるということは大事なことだとつくづく思った。
それにはある意味勇気がいるかもしれないし、プライドは捨てなくてはならないだろう。
「老い」て行く中で、できなくなることもあるけれど、できることもあるはずだ。
神様がこの地上での命を与えてくださっている限り、できないことはできない、できることをしようという気持ちでいたい。
それはもしかしたら、自分はベッドで横たわりながら、訪ねてきた人に微笑みかけることしかできない時が来るかもしれない。
でもそれで「よし」と受け入れられる自分でいたい。
こんなことを書きながら、自分にその時期が訪れた時、果たして自分にはそれができるだろうか?と自問せずにはいられない。
ある方が「かわいいおばあちゃんになるのが夢なんです」とおっしゃったのが頭の片隅に残っている。

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月曜日

2006-09-19 10:27:03 | 教会の風景
たいてい月曜日は休息の日で、ゆったりと過ごすことが多い。
でも、昨日は朝から出かけた。
ひばりヶ丘の教会で「お楽しみ広場」の会場準備になっていた。

9時過ぎに家を出て、一度東村山の教会へ寄った。
H先生も昨日からショートステイに出られることになっていた。
Kさんご夫妻が送迎してくださるので、車を見送ってからひばりヶ丘へ向かおうと考えていた。
でも結局、H先生の出発が遅くなったので、一言あいさつしてから、ひばりヶ丘へ。

10時頃にはひばりヶ丘の教会へ到着。
中に入るとOさんの声がどこからか聞こえてくるが、それほどまだ集まっているような感じではなかった。
OさんとTさんが「お楽しみ広場」の担当者なので、お二人から会場の説明と指示を受けた。
地下の部屋を自由に使っていいという了解を頂いた。

しばらくするとユースのメンバーが集まって来た。
テーブル、イス、ピアノの位置を移動、そして機材のセッティング。
自分たちの所だけでも1時間くらいはかかった。

それから昼食でお弁当。
11人でおしゃべりしながら楽しく食事。
Nさん夫妻(というより奥さんRさんがほとんど話してたかな?)のトークが面白かった。

午後は同じ建物の2階の展示コーナーの準備の手伝い。
絵画、書、粘土細工などの展示物が届いていた。
3時頃には仕事が終わった。
東村山から来たKさんの車に乗せていただき帰宅。

日曜日の夜が2時頃だったので少し休んで、教会へ。
4時頃だったが、Kさんご夫妻がH先生のご自宅の片付けをしていた。
いっしょに掃除をしていたMさんは3時頃帰られたそうだが、お二人はまだ続けていた。
本当によく尽くしておられるのに頭が下がる。
最後の少ししかできなかったが、掃除をお手伝いした。


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試食会

2006-09-19 10:01:01 | 教会の風景
今度の土曜日に、ひばりヶ丘の教会で「お楽しみ広場」という教会の文化祭を開く。
Youth For Jesusでも出し物を予定している。
バンド一組。
出店(うどん・おでん・ベーグルサンド)。

バンドの練習もいよいよ大詰め。
出店は日曜の夕食で試食会をしてみた。
なかなかいい感じだった。
うどんのトッピングも充実していた。
大根おろし、ねぎ、かまぼこ、あげ、長芋、天かすなどからセルフで自由に。
ベーグルサンドは、クリームチーズとスライスサーモン。
どちらも好評で、全部たいらげた。

前日にコストコへ買出しに行く予定。
当日が楽しみだ。

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昼食会

2006-09-19 09:47:30 | 教会の風景
日曜日の礼拝後の食事は、みんなでいっしょに昼食会をした。
この日のメニューは、肉丼とサラダ。
婦人会の方々が準備してくださった。
とてもおいしかった。
器も新たに購入した。
ここでもコストコは活躍している。
食堂が手狭なくらいだが、みんなでいっしょにする食事はとてもいい。
いつも後になってから「写真を撮り忘れた!」と気付く。
ここに載せられないのが残念。

その後、希望者はW先生とギター教室。
A君は先週ギターを買って、この時間に参加。
もとバンド経験者など、数名が参加していた。
いくつかのコードを覚えて、簡単な賛美を習った。
30分しか時間を取れなかったが、その後の聖書の学びの時間に早速練習の成果を披露。
ギターの伴奏に合わせて3曲歌った。
これからギターの伴奏も取り入れていきたい。
私の知る限り、教会でのギターの伴奏は珍しいことではないけれど、今までそれが無かったこの教会にとっては画期的な一歩となった。
良いきっかけになったと思う。

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父と子の関係

2006-09-19 09:36:30 | 聖書通読
ヨハネ11:41,42
「イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。わたしはあなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることをしっておりました。しかしわたしは、回りにいる群集のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、
こう申したのです。』」

この聖書の箇所では、父なる神様と子なる神様の関係が窺える。
確信という言葉がふさわしい強い信頼関係があることがわかる。
願ったら、与えられるという非常にシンプルなことだけれど、そこには父子の強い一体性を見ることができる。

さて、この関係はただ三位一体の神様の間だけのことであろうか?
神秘的な三位一体(神が父、子、聖霊の三つの人格でありながら、ひとつであるという聖書の示す教え)という関係の中でのみ成り立つのだろうと、ある人は考えるかもしれない。
神様と人間の間には、そんな関係は存在し得ないと主張するかもしれない。
神様は遠い存在で、願ってもそれが叶うかどうかは、確信なんてとても持てないというしかないのか?

しかし、聖書はどのように言っているだろうか?
聖書は少なくとも、以下のように示している。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願うことを神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(ヨハネⅠ 5:14,15)

「神のみこころにかなう願いをするなら」という条件の下で、「何事でも神はその願いを聞いてくださる」という確信を持てるということである。
私たちの関心は、とかく願いことが叶うかどうかに向けられる。
しかし、その願いは自己中心、自己実現、自己満足を追求することになりかねない。
私たちの関心が「神のみこころ」に向けられ、そのみこころに気付き、そのみこころに基づいて願うなら、私たちは確信をもって願うことができる。
イエス様を信じる者は、神の子どもとされている。(ヨハネ1:12)
父なる神様に向かって、子どもとして願うことが許されているということは、どれほど大きなことだろう。
御父と御子の関係と照らし合わせて考えさせられた今日の朝。

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