今日は新約緒論の講義。
明治以降の日本のキリスト教界(特にプロテスタント)の歩みを概観しながら、聖書観についての説明。
* 聖書の無謬性(むびゅうせい)
* 聖書の無誤性(むごせい)
たった一字違いだけれど、聖書をどのように見るのかという点では随分違う。
(無謬性)
聖書は救いに関して誤りのないものだが、記述自体は誤りがないとは言えない。
突き詰めていけば、聖書のある部分は信頼できるが、ある部分は記録した人物(弟子たち)の主観や当時の教会のコントロールが及んでいるため事実として信頼できない。
(無誤性)
聖書は神の霊感(導き)を受けた誤りのないもの。
聖書は神がその記録した人物を用いて書いたもので、そのすべての記述に誤りはない。
聖書の無謬性に立つ時、聖書を読む人の主観に依存するようになり、キリストのイメージも神学もボンヤリしてくる。
聖書の無誤性に立つ時、聖書という唯一の規準に忠実であろうとするので、キリストのイメージも神学も明確で安定してくる。
聖書を誤りなき神の言葉として忠実に学び、慎重に伝えるものでありたいと私は願う。
神の言葉に仕えるということは、途方もなく重大なこと。
明治以降の日本のキリスト教界(特にプロテスタント)の歩みを概観しながら、聖書観についての説明。
* 聖書の無謬性(むびゅうせい)
* 聖書の無誤性(むごせい)
たった一字違いだけれど、聖書をどのように見るのかという点では随分違う。
(無謬性)
聖書は救いに関して誤りのないものだが、記述自体は誤りがないとは言えない。
突き詰めていけば、聖書のある部分は信頼できるが、ある部分は記録した人物(弟子たち)の主観や当時の教会のコントロールが及んでいるため事実として信頼できない。
(無誤性)
聖書は神の霊感(導き)を受けた誤りのないもの。
聖書は神がその記録した人物を用いて書いたもので、そのすべての記述に誤りはない。
聖書の無謬性に立つ時、聖書を読む人の主観に依存するようになり、キリストのイメージも神学もボンヤリしてくる。
聖書の無誤性に立つ時、聖書という唯一の規準に忠実であろうとするので、キリストのイメージも神学も明確で安定してくる。
聖書を誤りなき神の言葉として忠実に学び、慎重に伝えるものでありたいと私は願う。
神の言葉に仕えるということは、途方もなく重大なこと。