今日で牧会学Ⅰのクラスも終了しました。
ひとりずつレポート作成後の感想も分かち合いました。
このクラスは序論ですので、スタートしたばかりです。
現場での奉仕に取り組みつつ学びも深めて、
私なりの「牧会の神学」を追究していきたいです。
今後、さらに牧会学Ⅱ以降のクラスも履修していきたいです。
聖書的牧会者像を求めて
神は人を用いて、ご自身の教会を建て上げる。神は全能であられるが、人は不完全で欠けの多いものである。それでは一体、誰がこのような務めにふさわしいと言えるのだろうか?このレポートでは、聖書が牧会者について示している指針について、いくつかの項目に分けて整理していくことにする。神が牧会者に期待されていること、牧会者とは何者なのかということを確認するのがねらいである。
① 牧会者に期待される資質・目標
テモテⅠ 3:2-7
非難されるところがない/ひとりの妻の夫/自制/慎み/品位/もてなし/教える能力
/酒飲みでない/暴力的でない/温和/争わない/無欲/家庭を治める/子供のしつけ
/信者に成りたてでない/教会外でも評判が良い
テトス 1:5-9
非難されるところがない/ひとりの妻の夫/子供の品行方正/神の家の管理者
/わがままでない/短気でない/酒飲みでない/けんか好きでない/不正な利を求めない
/もてなし/善を愛する/慎み/正しさ/敬虔/自制心/健全な教え
要約すると次のカテゴリーに分けられるように思う。
* 人格 * 家庭生活 * 教会内外の人間関係 * 教える能力(健全な聖書理解)
牧会者は、その人自身の人格が健全であり、品行方正であることが求められている。また、家族や教会内外の人々との関係も良好に保っていることを期待されている。そして、能力的なこととしては、聖書を正しく教えることを要求されている。やはり、教会という信者の共同体に仕え、充分にその役割を果たしていくには、上記の条件が整った方がより良いわけである。
もし、牧会者となる者が、これらの内の一つの点に著しく欠けるというならば、その欠点はその人自身と教会とに大きなリスクとなることに留意が必要だろう。人としての弱さや欠けは、瞬時に変えられるものではない。一見順調な教会成長を遂げて、牧会に成功しているように見える最中、牧会者は自らの欠けている点のゆえに取り返しのつかないような失敗を犯しうる。その結果、その人自身と教会にとって大きな痛手となる。
牧会者(を志す者)自身の真摯な自己吟味と周囲の信者の冷静な観察力が、問われるところであると思う。また、牧会者は自らの欠けや弱さを率直に認め、誠実な協力者や同労者の助言や指摘、実際的な協力を受けながら、自らの務めを最善に果たせるように努力していくべきであろう。その場合、本音で向き合ってくれる協力者・同労者の存在は、何ものよりもありがたいものである。
② 牧会者としての資格・任命
エペソ4:11,12
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」
コリントⅠ 12:28
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
ローマ12:4-8
「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。・・・」
牧会の務め = 神からの賜物 としての理解
牧会者の役割 = 信徒たちの賜物・交わりが健全に機能するための調整役 という理解
初めに、人間的な視点から牧会者の理想像を考察した。しかし、次にここで考えたいことがある。牧会者の資格についてである。牧会者が牧会者でありうるのは、神の任命に基づいていると聖書は明確に教えている。神(キリスト)が、ある人を選んで、牧会の務めを託しているわけである。ただし、この場合、キリストのからだ(教会)の中での役割として、牧会を賜物として授けている。つまり、牧会者として任命されることは、信徒より敬虔であるとか霊的であるというお墨付きを受けるという意味ではない。①の章で示した厳格な条件をクリアした霊的な優等生が牧会者として任命されるという意味でもない。また、牧会者のすべての発言を神の代弁であると考えるのも明らかに不適切である。
確かに、牧会者の任命は、神の導きの下で行なわれるものである。しかし、神に代わって意のままに教会をコントロールする権限が牧会者に委ねられたのではない。むしろ、ひとりひとりの賜物が教会で健全に機能し、その交わりが神のみこころにそって深めれられるための補助的な役割を牧会者は担うのである。
③ 牧会者の指導方針・心得
ペテロⅠ 5:3
「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
テモテⅠ4:12
「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」
ヨハネ13:14,15
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」
マタイ20:25,26,28
「そこでイエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は、みなに仕える者になりなさい。・・・人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』」
模範を示すことで伝達 自ら仕えることで教える
ここでは牧会者の基本姿勢を確認しておきたい。いわゆるリーダーシップについてである。私は「模範」と「仕える」ということが聖書的なリーダーシップの大切な要素だと考えている。世俗的なリーダーシップのイメージとは合致しないかもしれないが、牧会者はこの点を充分注意する必要があるだろう。牧会者がもっとも習うべき基本姿勢は、御子イエスが公生涯で示されたライフスタイルである。もちろん、すべての信徒がイエスに習うべきであるが、牧会者は率先して御足跡に従うものでなければならない。ましてや、教会の会衆が、いわゆる世俗的なリーダー像を牧会者に期待しているときはなおさら、主イエスのライフスタイルに自らの焦点を合わすように注意しなければならないだろう。会衆の理想像に自らを合わせたいという誘惑を拒む勇気も必要となる。僕として生きること、模範を示すこと、これが基本的な牧会者の指導の心得だと思う。
④ 牧会者の主要な務め
使徒 6:2,4
「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。・・・そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』」
テモテⅡ 2:15
「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」
みことばを教える務めの重要性・優先性
牧会者は、教会内の様々な仕事を抱えている。確かに、その中の多くの用件は放置するわけにはいかない類のものである。実際の円滑な教会運営のために必要なものと思われる。しかし、忙しさのあまり、最も大切にすべき務めに充分な時間を充てることができないでいるとすれば、それは教会にとって大きな損害である。
上記の使徒の働きの箇所は、教会内の配給の奉仕の問題に取り組んだ初代教会の知恵が示されている。使徒は、祈りとみことばの奉仕に専念すると告げている。優先事項として、彼らは祈りとみことばを選択した。問題には、それにふさわしい別の人に担当してもらうことで対処した。牧会者の主要な務めも、祈りとみことばであると思う。教会の事務的な仕事や信徒の相談への対応をおろそかにするわけではないが、やはり中心は祈りとみことばの奉仕である。
みことばを教えることに関しては、①の資質、②の賜物の章とも関連している。聖書は、牧会者にみことばを教える者という役割を定めている。信徒たちに正しく聖書を教えることを常に追求していくことが牧会者には期待されている。当然のことかもしれないが、聖書に基づく健全な教えが、健全な教会形成・教会成長をもたらすものであると思う。安易な方法論やエンターテイメントの要素が強いものは、一過性であって、かえって長い目で見ると障害となることさえあると私は思う。どのような時代であっても常に、真理を堅実に教える者が教会で必要とされ、神はそのような牧会者を求めておられると信じている。
終わりに
①~④の限られた要点の中ではあったが、私自身が特に心に留めていることを整理できた。こうした牧会に関する方向性は、現在の奉仕の中でも心がけていることである。ただし、今後ますます様々な見解や事例に触れながら、整えられていく必要があることも感じている。
レポートをそのままコピーして貼りつけたものなので・・・
見づらいのに最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
明日は、いよいよ新約原典講読(ギリシャ語)の期末試験です。
がんばります
ひとりずつレポート作成後の感想も分かち合いました。
このクラスは序論ですので、スタートしたばかりです。
現場での奉仕に取り組みつつ学びも深めて、
私なりの「牧会の神学」を追究していきたいです。
今後、さらに牧会学Ⅱ以降のクラスも履修していきたいです。
聖書的牧会者像を求めて
神は人を用いて、ご自身の教会を建て上げる。神は全能であられるが、人は不完全で欠けの多いものである。それでは一体、誰がこのような務めにふさわしいと言えるのだろうか?このレポートでは、聖書が牧会者について示している指針について、いくつかの項目に分けて整理していくことにする。神が牧会者に期待されていること、牧会者とは何者なのかということを確認するのがねらいである。
① 牧会者に期待される資質・目標
テモテⅠ 3:2-7
非難されるところがない/ひとりの妻の夫/自制/慎み/品位/もてなし/教える能力
/酒飲みでない/暴力的でない/温和/争わない/無欲/家庭を治める/子供のしつけ
/信者に成りたてでない/教会外でも評判が良い
テトス 1:5-9
非難されるところがない/ひとりの妻の夫/子供の品行方正/神の家の管理者
/わがままでない/短気でない/酒飲みでない/けんか好きでない/不正な利を求めない
/もてなし/善を愛する/慎み/正しさ/敬虔/自制心/健全な教え
要約すると次のカテゴリーに分けられるように思う。
* 人格 * 家庭生活 * 教会内外の人間関係 * 教える能力(健全な聖書理解)
牧会者は、その人自身の人格が健全であり、品行方正であることが求められている。また、家族や教会内外の人々との関係も良好に保っていることを期待されている。そして、能力的なこととしては、聖書を正しく教えることを要求されている。やはり、教会という信者の共同体に仕え、充分にその役割を果たしていくには、上記の条件が整った方がより良いわけである。
もし、牧会者となる者が、これらの内の一つの点に著しく欠けるというならば、その欠点はその人自身と教会とに大きなリスクとなることに留意が必要だろう。人としての弱さや欠けは、瞬時に変えられるものではない。一見順調な教会成長を遂げて、牧会に成功しているように見える最中、牧会者は自らの欠けている点のゆえに取り返しのつかないような失敗を犯しうる。その結果、その人自身と教会にとって大きな痛手となる。
牧会者(を志す者)自身の真摯な自己吟味と周囲の信者の冷静な観察力が、問われるところであると思う。また、牧会者は自らの欠けや弱さを率直に認め、誠実な協力者や同労者の助言や指摘、実際的な協力を受けながら、自らの務めを最善に果たせるように努力していくべきであろう。その場合、本音で向き合ってくれる協力者・同労者の存在は、何ものよりもありがたいものである。
② 牧会者としての資格・任命
エペソ4:11,12
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」
コリントⅠ 12:28
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
ローマ12:4-8
「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。・・・」
牧会の務め = 神からの賜物 としての理解
牧会者の役割 = 信徒たちの賜物・交わりが健全に機能するための調整役 という理解
初めに、人間的な視点から牧会者の理想像を考察した。しかし、次にここで考えたいことがある。牧会者の資格についてである。牧会者が牧会者でありうるのは、神の任命に基づいていると聖書は明確に教えている。神(キリスト)が、ある人を選んで、牧会の務めを託しているわけである。ただし、この場合、キリストのからだ(教会)の中での役割として、牧会を賜物として授けている。つまり、牧会者として任命されることは、信徒より敬虔であるとか霊的であるというお墨付きを受けるという意味ではない。①の章で示した厳格な条件をクリアした霊的な優等生が牧会者として任命されるという意味でもない。また、牧会者のすべての発言を神の代弁であると考えるのも明らかに不適切である。
確かに、牧会者の任命は、神の導きの下で行なわれるものである。しかし、神に代わって意のままに教会をコントロールする権限が牧会者に委ねられたのではない。むしろ、ひとりひとりの賜物が教会で健全に機能し、その交わりが神のみこころにそって深めれられるための補助的な役割を牧会者は担うのである。
③ 牧会者の指導方針・心得
ペテロⅠ 5:3
「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
テモテⅠ4:12
「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」
ヨハネ13:14,15
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」
マタイ20:25,26,28
「そこでイエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は、みなに仕える者になりなさい。・・・人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』」
模範を示すことで伝達 自ら仕えることで教える
ここでは牧会者の基本姿勢を確認しておきたい。いわゆるリーダーシップについてである。私は「模範」と「仕える」ということが聖書的なリーダーシップの大切な要素だと考えている。世俗的なリーダーシップのイメージとは合致しないかもしれないが、牧会者はこの点を充分注意する必要があるだろう。牧会者がもっとも習うべき基本姿勢は、御子イエスが公生涯で示されたライフスタイルである。もちろん、すべての信徒がイエスに習うべきであるが、牧会者は率先して御足跡に従うものでなければならない。ましてや、教会の会衆が、いわゆる世俗的なリーダー像を牧会者に期待しているときはなおさら、主イエスのライフスタイルに自らの焦点を合わすように注意しなければならないだろう。会衆の理想像に自らを合わせたいという誘惑を拒む勇気も必要となる。僕として生きること、模範を示すこと、これが基本的な牧会者の指導の心得だと思う。
④ 牧会者の主要な務め
使徒 6:2,4
「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。・・・そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』」
テモテⅡ 2:15
「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」
みことばを教える務めの重要性・優先性
牧会者は、教会内の様々な仕事を抱えている。確かに、その中の多くの用件は放置するわけにはいかない類のものである。実際の円滑な教会運営のために必要なものと思われる。しかし、忙しさのあまり、最も大切にすべき務めに充分な時間を充てることができないでいるとすれば、それは教会にとって大きな損害である。
上記の使徒の働きの箇所は、教会内の配給の奉仕の問題に取り組んだ初代教会の知恵が示されている。使徒は、祈りとみことばの奉仕に専念すると告げている。優先事項として、彼らは祈りとみことばを選択した。問題には、それにふさわしい別の人に担当してもらうことで対処した。牧会者の主要な務めも、祈りとみことばであると思う。教会の事務的な仕事や信徒の相談への対応をおろそかにするわけではないが、やはり中心は祈りとみことばの奉仕である。
みことばを教えることに関しては、①の資質、②の賜物の章とも関連している。聖書は、牧会者にみことばを教える者という役割を定めている。信徒たちに正しく聖書を教えることを常に追求していくことが牧会者には期待されている。当然のことかもしれないが、聖書に基づく健全な教えが、健全な教会形成・教会成長をもたらすものであると思う。安易な方法論やエンターテイメントの要素が強いものは、一過性であって、かえって長い目で見ると障害となることさえあると私は思う。どのような時代であっても常に、真理を堅実に教える者が教会で必要とされ、神はそのような牧会者を求めておられると信じている。
終わりに
①~④の限られた要点の中ではあったが、私自身が特に心に留めていることを整理できた。こうした牧会に関する方向性は、現在の奉仕の中でも心がけていることである。ただし、今後ますます様々な見解や事例に触れながら、整えられていく必要があることも感じている。
レポートをそのままコピーして貼りつけたものなので・・・
見づらいのに最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
明日は、いよいよ新約原典講読(ギリシャ語)の期末試験です。
がんばります