東村山聖書教会の歩みが3年目に入りました。
私としても思いがけず、再開拓という形で急展開することになった宣教の働きです。
ですが、この2年を振り返ってみれば、主の憐れみは尽きず、主の真実は揺るぎないものだと学ばせて頂くことになりました。
かつて、20代後半のときに、私はこの聖書のことばから教えられました。
(使徒の働き8章5-8節, 26節)
「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。その町には、大きな喜びがあった。… さて、主の使いがピリポに言った。『立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』そこは荒野である。」
ピリポが、迫害を避けてサマリヤに向かい、そこで宣教の働きの豊かな実りを経験しました。
しかし、そのサマリヤでの実り多き働きから、今度は別の使命を帯びて遣わされます。
その向かった先は、荒野の中の道だったといいます。
当時の私は、ピリポのこの柔軟な切替の姿に教えられました。
単に自分の成功や安定を求めるならば、サマリヤにとどまっていても良いのに、ピリポは惜しげもなく次なる働きに向かいました。
そして、ピリポはそこでも務めを果たして、救いを求めるひとりの人をキリストへと導きました。
この開拓教会の2年間の宣教の働きも、それ以前の働きの条件からすれば、本当に何もないところから始まりました。
それでも、新たに求める方々も加えられ、ご自分の信仰を見直したり、教会に通うのを再開する方々の助けとなるように役立てられました。
主は、万事をご自身の計画に基づいて、成し遂げる方です。
今年も、主の導きにしたがって一歩一歩、進んでいきたいと願っています。
私としても思いがけず、再開拓という形で急展開することになった宣教の働きです。
ですが、この2年を振り返ってみれば、主の憐れみは尽きず、主の真実は揺るぎないものだと学ばせて頂くことになりました。
かつて、20代後半のときに、私はこの聖書のことばから教えられました。
(使徒の働き8章5-8節, 26節)
「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。その町には、大きな喜びがあった。… さて、主の使いがピリポに言った。『立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』そこは荒野である。」
ピリポが、迫害を避けてサマリヤに向かい、そこで宣教の働きの豊かな実りを経験しました。
しかし、そのサマリヤでの実り多き働きから、今度は別の使命を帯びて遣わされます。
その向かった先は、荒野の中の道だったといいます。
当時の私は、ピリポのこの柔軟な切替の姿に教えられました。
単に自分の成功や安定を求めるならば、サマリヤにとどまっていても良いのに、ピリポは惜しげもなく次なる働きに向かいました。
そして、ピリポはそこでも務めを果たして、救いを求めるひとりの人をキリストへと導きました。
この開拓教会の2年間の宣教の働きも、それ以前の働きの条件からすれば、本当に何もないところから始まりました。
それでも、新たに求める方々も加えられ、ご自分の信仰を見直したり、教会に通うのを再開する方々の助けとなるように役立てられました。
主は、万事をご自身の計画に基づいて、成し遂げる方です。
今年も、主の導きにしたがって一歩一歩、進んでいきたいと願っています。