辛口の中にも愛を!!ビデオグラファー愛

赤ちゃんから皇室を撮るカメラマン
そんな自身の創意と意志を伝えるブログ

とかく、「時間」には、うるさいんです。

2016-07-10 05:59:04 | 飲酒
「えー、何待ち」って、最近は言わなくなりました。。

自慢する程ではないが、
待ち合わせに遅刻した事は皆無である。。

むしろ、待ち合わせ時刻に、
早すぎるほどのタイミングで
いくことが大半である。

待ち合わせ時刻が、10時だったりするでしょう、
もう8時10分には、到着していないと
不安でならない。

6時なら、4時頃には到着していたいので
ビジネスホテルに泊まってまでも
実行するタイプなの。。。

電車が止まったらどうしよう。
クルマの渋滞で動かなかったら困るなーと、

不安がよぎります。

遊びでも仕事でも
時間管理は大切です。

最近、時間にルーズだったり
要領が悪い奴が多いなーと強く感じる。

昔、工場で時間管理をしながら
作業経験があるので、この習慣は性格的に
合致していて、時間管理にはウルサイです。

取り合えず撮っておいて、と言われ
撮らなかった事はありませんが、
目的の曖昧な撮影ほど、無駄な時間はないというのも
持論である。

制作をしていた時代もあるので、
「とりあえず」という事もバカバカしく感じるし
意味がないと強く思う。


10歩先を見据えた仕事の進め方を日々行う中で、
「私生活は?」と、問われると
10歩後退してるかも、と、バカなことを言ってしまう自分である。


お任せしていただけるのなら、条件が悪くとも引く受ける映像制作も有りです。こんな私なんです。

2016-07-10 05:36:10 | 会社経営
まぁ、あまり余裕はないんですが。

面白そうなことには首を突っ込むタイプで
有名なようです。

日々、小さな撮影案件のお話が舞い込んできて
嬉しい悲鳴をあげています。

今月はほぼ休みなく、撮影に出かけています。

ミクシーで5000円案件のお話を語りましたが、
引けを取らない案件も多数いただき。

まさに、「映像界のジャパネットたかた」と呼ばれるほど、
連絡さえすれば、なんとか形にしてくれるとの事で
面白い案件も多いです。

で、この手の案件でのお約束は、
「車で行くので、ガソリン代と高速代の支給をしてくれる」が
絶対条件!

よければ、ご飯代も!である。

相変わらずかもしれないが、面白ければいいのである。

納品物も自由に作れて、何の指示もされないので
自由に創作できます。

案件を受ける時点で、「こうしたいです!」と言われると
私の方からお断りします。

なぜなら、「でしたら、いうことを聞くカメラマンなりディレクターへ
仕事を振った方が後腐れないので〜」と、言うことですのでと、
お断ります。

でも、最終的には、すべてお好きなように
制作してくださいとなります。

要するに、すべては金額から派生しているのである。

お金のことばかり言うと、スマートではないけどね。

他にその金額でできる見込みが立たず
最終的には私が好きなように、好きな視点で
制作させていただきます。

と、このような案件も多数、請けています。
何なりとお申し付けください。

なぜ、カメラマンになったのか考えると、そこには、悲しいかな、いろんな事情があってこうなったのだ。

2016-07-10 04:57:49 | 会社経営
もともと、機械が好きだった。

興味を持ち出した時期を自分で覚えているのが
4歳の頃の記憶が少しある。

ブリキでできた、リモコン戦車を
バラバラに分解して、ブリキの断片で
手のひらを切って、血だらけになったのが
鮮明に記憶に残る。

「血って、暖かいんだなー」、というのが最初の印象であった。

そんな幼少期を過ごしつつ
次に興味を抱いたのが「テープレコーダー」だった。

昭和45年以降、時代はオープンリール テープレコーダーから
カセット式えへ大きく変貌する。

信じられないかもしれないが、その頃、燃えないゴミの日になると
近所のゴミ捨て場には、何台ものオープンリール テープレコーダーが
捨てられている。それを拾っては持ち帰り、分解して遊んでいた。

うちには何台ものテープレコーダーがあったので
両親も困惑していた。

でも、当時のオープンタイプは非常に重かった記憶があるが、
ワウフラッターが少ない、高性能なタイプが多かった。
子供ながらにして、綺麗なピアノの音が忘れられない。

当時、カーステレオの主流といえば、「8トラックテープ」が主流で
その8トラのテープを指で引き出し、オープンデッキに引っ掛け
再生させていたことも覚えている、
8トラの録音されたトラックは、8トラといういうのだから
8本であるが、オープンデッキと同じトラック幅であるので
再生できるトラックある、確か、違う曲が左右のスピーカら
再生されていた記憶がある。でも、テープスピードは同じだったので
曲としてはたんと認識できた。そんな、小学生時代を過ごしていた。

その頃から、写真にも興味を持ち始め
オーディオと写真の毎日を過ごしていた。

写真は、24枚取りが主流で、絹目プリントが流行していた頃である。
同時プリントに出すと、現像で600円 1プリントが枚25円で10日間くらいで
仕上がってくる。その期間が待ちどうしくて、仕上がりの日は
速攻で取りに行ったものだ。

程なくして、ビデオとビデオカメラが家庭用として販売される。

友達の家で見た。東芝のベータデッキであった。小学3年生であった。

ついに、好きな時間にテレビ番組が観られる時代に突入だと幼いながら感じる。

機械好きな少年であった。

で、なぜカメラマンになったかというと、
自分でもよくわからない、せいぜい、写真とか興味があったくらいで
私の場合は、幼少期、少年時代、思春期とカメラマンになるという
強い思いはなかった。ただ、機械に興味があっただけ。

でもね、「性格」がカメラマン気質だったのかもしれない。
何にでも興味を持ち、追求する気質や探りかたが異様に冷静であり
着目点が違うということかな。

小学校にの成績表に、「物事の考え方や着目点が、人と違う」と
よく書かれていて、親を泣かしてものだ。
泡ゆる、「変人扱い」って言うやつですね。。。


そして、今まで接してきた人との関わりも大きいと思う。

高校生時代から、エンターテイナー的なライヴとか映像とか
触れる機会が多かったので、漠然としているが、そんな事に触れられる
仕事もいいなぁーと、思っていたの程度である。

「性格」がカメラマンとして向いていたので、
天職的に長年続けられたと感じるし、カメラマンとしてデビューする時期も
早かったと思う。

しっかりギャラを頂く仕事は、15歳だった事も覚えているし、
撮影した内容も場所、使った機材も鮮明に今でも記憶している。

なんか、漠然としているが
「性格」って、どうとでも取れるんだなーと感じつつ、
「数字」や「数字」に強かったら、物理学者にも成っていたのかもしれない。

カメラマン仲間の、カメラマンになった理由も知りたいなーと、思ってみたりする。