シリアは砂漠地帯もあるが、地中海に近い西部とユーフラテス沿岸には農業地帯があり、急激な人口増加がなければ食物を自給できる。1960年代以後新たに農地を増やし、人口増加を支えて来た。ユーフラテス川から遠い地域はステップ地帯であったが、井戸を掘ることによって農地に変えた。これが1990年代以後徐々に破たんし始め、2000年代後半になると、全体的に破たんした。この地域はもともと地下水の層が薄く、長年くみ上げた結果、地下水が枯れてしまった。雨がほとんど降らなかった2007年と2008年この地域の農地は砂漠となり、農民は2年連続で収入がなく、破産した。彼らは土地を捨てて都会へ移住し、難民となった。家族の中の若者が親戚・知人の紹介で、低賃金労働の機会を得、老人・子供を養った。しかしそううまくいかなかった場合もあるようで、餓死しそうになった家族も多いようである。アサド大統領自身がこのような家族の救済にした、と語っている。
2008 年ー2011年の干ばつの被害により、80万人が生活の手段を失った。このことがシリア内戦の引き金となった可能性があるが、これだけが決定的要因だとするの早計である。短期間にこれらの人々を労働力として吸収できれば、体制を転覆する要因にはならない。
問題なのは、シリア経済が農村で破産した家庭の働き手を吸収する力があるか、である。国家経済の破産なくして革命は起きないし、起こしてはならない。そもそもシリアの経済は破産していたのか。東北部農村で破産した人々を吸収できる見込みはなかったのか。
〈 シリアのGDP〉
1965年ー2005年
2006年ー2011年
シリアは1960年以後経済成長を続けていたが、1985年ー1995年マイナス成長となった。これはソ連がゴルバチョフ期から崩壊期へと至る時期である。ゴルバチョフの改革(ぺレストロイカ)は経済の低迷故に失敗した。ソ連の衛星国や親ソ国はソ連崩壊前から経済的打撃を受けた。
シリアは1995年以後再び経済成長を開始し、2010年に至っている。
2016年6月、IMFが内戦中のシリアの経済について報告した。その第一章は「内戦前」と題されている。
=========《内戦中のシリアの経済》========
2016 IMF Working Paper : Syria's conflict economy
by Jeanne Gobat and Kristina Kostial
第1章 内戦前のシリアの経済
〈経済の自由化〉
2000年代、シリアは経済成長を求めて、徐々に経済の自由化を推進した。石油の埋蔵量が減少しており、生産量は減少に向かっていた。これは国家の収入の減少を意味し、財政の悪化は免れなかった。
シリアは1990年代にソ連崩壊後の社会主義諸国の例に倣い、自由主義経済への移行に着手していた。石油の減収を埋めるには、新たな経済発展が必要であり、2000年以後経済改革がさらに促進された。国家中心の統制経済が多様化され、種々の規制が緩和された。また国民への燃料補助金が打ち切られ、税体系が簡素化された。
2004年私立銀行の設立が許可され、2009年には40年ぶりに株式市場が再開された。2001年シリアはWTOへの加盟を申請し、2007年トルコとの間に自由貿易協定を結んだ。IMFがシリアの経済改革を支援し、銀行の監督強化や金融政策の近代化について技術的なアドバイスをした。その他以下のような改革のためのアドバイスをした。
①国債市場の拡大
②政府収入の強化と方法の簡素化
③国と地方の財政運営の改善
〈安定した経済〉
インフレ率は低く、経済成長は力強く、2009-2010年の期間、石油以外の分野の成長率は平均4.4%だった。公営企業が大きな割合を占めているにもかかわらず、財政赤字は限度内であり、2009年末借入金の残高はGDPの31%だった。(輸出入の)経常収支はほぼ均衡しており、2010年末の時点で準備金を十分保有していた。それは10か月分に相当する額だった。
2000-2009年、外国からの直接投資は平均するとGDPの1.3%であり、薬品、食品加工、繊維などの分野に投資された。
〈貧困と失業の増加〉
2010年のシリア政府の報告によれば、貧困からの脱却を目的とした新世紀計画は、いくつかの分野で前進した。それらは、以下のようなものである。
①初等教育の普及
2男女間の教育格差をなくす
③幼児死亡率を減らす
④子供の予防接種の普及などである。
〈地域間の経済格差〉
貧困率は1997年から2004年にかけて改善したが、2005年以後再び悪化した。農村は都会より貧しく、 経済の自由化による恩恵がなかった。また農民は数年連続の干ばつによる被害に苦しんだ。2007年東北部の貧困率は約15%であり、全国の貧しい人の半分がこの地域に住んでいた。2000年代後半、多くの農民が南部の都市や沿岸地方に移住した。彼らが移住した地域のいくつかは貧困地域に転落した。シリアの人口は数十年増加を続けたが、雇用の増加は追いつかなかった。10年間に失業率は2倍になった。2006年と2007年の失業率は16%だった。同じ期間、若年労働者(15歳ー24歳)の失業率は22%だった。
〈ビジネス環境が悪く、法の支配がない〉
2009年の「国別ビジネス環境」によれば、シリアは181か国の中で137位だった。融資が受けにくく、契約は守られず、土地の登録ができない。改善した点もあり、短期間で事業を開始できるようになった。
2009年の起業調査によれば、シリアへの投資の障害となっているのは汚職、教育されていない労働者、電力不足などであった。役人にわいろを渡さないと、ものごとがを進まない、と80%以上の企業が答えている。中東・北アフリカの平均は37%である。経済の自由度についての別の調査(Heritage Index)によれば、2006年ー2009年シリアは抑圧され、ほとんど自由がない国に分類された。法の支配の点で、シリアは悪い方から数え、域内で4番目だった。シリアの政府機関は公的な責任を問われず、汚職まみれだった。司法機関は透明性がなく、独立性がなかった。
〈不十分な改革〉
2000年に大統領に就任したアサド大統領は政治改革を宣言したが、改革の速度が遅く、改革推進派と反対派との間に対立がうまれた。
=====================(IMF報告終了)
上記IMFの報告によれば、2006年と2007年シリアの失業率は16%となっているが、IMFは上記と別の報告を出しており、それによれば2006年と2007年の失業率は8%となっている。IMFが2種類の統計を発表しているのは不可解だが、IMFは自ら調査したわけではなく、シリア政府の発表に基づいており、2種類の数字の原因はシリア政府にあるかもしれない。シリア政府は最初16%という数字を発表したが、後に8%に変更した。現在ネットのすべてのサイトが8%としている。
2000年代になり失業率は低水準になっている。が高くなるのはであり、2008年を除けば、2000年代後半の失業率は8%と安定している。
小さなことであるが、上のグラフでは2008年の失業率が12%となっているが、他の多くのサイトでは10%となっている。
1997年 16.76% 2005 年 8.01 %
1998 12.41 2006 8.12
1999 13.46 2007 8.41
2000 13.48 2008 10.92
2001 8.17 2009 8.12
2002 11.67 2010 8.61
2003 10.78
2004 12.23 (出典) Index Mundi
失業率8%はやや高い数字だが、許容範囲のように思われる。世界の各国の失業率がどの程度か見てみよう。
2015年の失業率統計では、188か国の中で最悪の国はソロモン諸島であり、31%である。失業率8.2%は悪いほうから数えて82位である。失業率8.2%が原因で政権が倒れるなら、世界の半数近くの国の政権が倒れてしまう。
失業率が10%を超えると、要注意であり、国家の不安定要素になる。悪いほうから数えた順位は52位である。失業率10%台の国をいくつか挙げてみる。
10% フランス、トルコ
11% イタリア、イラン
12% ポルトガル、エジプト
13% ヨルダン、スーダン
「200年後半のシリアの失業率は8%」がネットの常識となっており、「内戦前のシリアの経済」で述べられた16%という数字は幻の数字となっている。しかしこれは簡単に否定できない。
①実は16%が正しい。シリア政府が意図的に修正。
②IMFの初歩的なミス。そうえはなく実態を正確に判断した。または意図的に悪い数字をはじき出した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます