イタリック語(イタリア語)を話す部族のうち、オスク人、ウンブリア人、ファリスク人については、すでに書いたので、今回はラテン人について書く。
ラテン人が住む領域は狭かったが、山が多いイタリア半島の中にあって、例外的に平野だった。ラティウムとは広いという意味であり、ラテン人とは「平野に住む人々」という意味である。ラテン人は狭い領域に住んでいたこともあり、地方差がなく、文化と宗教はほぼ同一だった。彼らの聖域と祝祭は共通していた。
ローマの神話はローマ建国以前のラティウムについて語っている。紀元前753年ロムルスがローマを建国するまでの経緯を説明するという形で、400年さかのぼって話を始めている。この400年間に起きたことは、ラティウムの歴史に他ならない。ローマ以外のラティウム諸都市が自分たちの由来について語った碑文は発見されていないので、ローマの伝説に従ってラティウムの歴史をたどることにする。
トロイ王族の武将アエネーアスはアカイア人(青時期時代にギリシャに住んでいた民族)との戦いで武勇を示したが、トロイが陥落した際、アカイア人は彼を殺害しなかった。多くの武将が殺害される中で彼が許されたのは、戦争の早期終結を提案していたからである。トロイの青年(パリス)がアカイア人女性(ヘレネ―)を誘拐したことが原因で、この戦争は始まった。アエネーアスは彼女(ヘレネ―)を返還することを提唱したが、トロイの主戦派は応じなかった。
トロイ脱出後アエネーアスは―エーゲ海を転々としたが、結局イタリアに向かい、テベレ川河口に近いラウレントゥムに上陸した。彼は単独ではなく、老いた父と仲間のトロイ人の小さなグループだった。
アエネーアスのイタリア上陸について、リヴィウスの「ローマ史」から抜粋する。原文はラテン語であるが、英訳がネットにあるので、それを訳す。
======《ローマ史、第1巻1章》=======
Titus Livius (Livy), The History of Rome, Book 1
Canon Roberts
シチリアを経てイタリアに向かったアエネーアスはラウレントゥムに上陸した。アエネーアスたちは終わりのない放浪の旅で疲れているうえに、食べ物もなく、武器と船(複数)以外、何も持たなかった。彼らは未知の土地で略奪を始めた。土地の住民とその地の支配者である国王ラティヌスは町と郊外の住民を集め、外国の侵入者を武力で追い払うことにした。この戦いについて、2つの説がある。
①地元の勢力が敗れ、異邦人に和平を願った。
②もう一つの説は以下のとおりである。
戦いが始まろうとしたとき、地元のラテン人の王が歩み出て、異邦人に話し合いを求めた。すると異邦人は話し合いに応じたので、ラテン人の王は彼らにたずねた。
「あなたたちはどういう種類の人間か、そしてどこから来たのか?なぜ故郷を去ったのか?我々の土地に何を求めているのか?」
異邦人の説明により、ラテン人の王は彼らがトロイ人であり、トロイが陥落したことを知った。また彼らは住む場所を探しており、都市を建設したがっていることがわかった。ラテン人の王はトロイ人の振る舞いが上品なことに驚いた。トロイ人は言った。
「あなたたちが戦争を望むなら我々は戦う用意があるが、それはあなた方次第だ」。
トロイ人とラテン人の間に正式な条約が成立し、ラティヌスはアエネーアスを客人として家に招いた。
政治的同盟の証(あかし)として、ラティヌスは娘をアエネーアスに与えた。トロイ人たちは終わりのない旅がやっと終了し、居住地を得たこと知り、喜んだ。
トロイ人はラウレントゥムの南東に新しい町を建設し、ラティヌスの娘ラヴィニアの名前にちなみ、町の名前をラヴィニウムとした。
=================(リヴィウス終了)
ラウレントゥムの支配者ラティヌスはラテン人の王と呼ばれているが、ラウレントゥム以外の支配地があったのか、書かれていいない。ラテン王ティヌスの支配地はラウレントゥムだけ、あるいは支配地の範囲がわからない王であるが、ラテン人という部族名とラティウムという土地の名は、彼の名前に由来する。
最初に書いたようにトロイ人の到来はローマ建設の400年前の話である。ラヴィニウムに最初の集落ができた時、ラウレントゥムはすでに大きな集落だったようである。ラヴィニウムは後発だったが、急速に発展する。
ラヴィニウムが建設された時期については疑問が多い。トロイ陥落のころ、ラテン人はイタリアにいなかった。その点を簡単に説明する。
トロイ陥落の時期は不明であるが、紀元前1200年以前という推定が一般的である。海を渡ってトロイを攻撃したアカイア人は、ギリシャの先住民族であり、ミケーネなどの都市が繁栄した。ギリシャのミケーネ文明はクレタ島に栄えたエーゲ文明とともに、エジプト・シリアの古代文明と並ぶ新しい文明となった。ラティウムの地はこの時代のギリシャ人(=アカイア人)に知られていた。アカイア人がイタリアのいくつかの場所に来ていたことが知られている。そのころラティウムに住んでいた民族についてはわかっていない。ラテン人がこの地に住むようになったのは、紀元前1000年以後である。紀元前1000ー800年には集落や村がうまれた。ラティウムの主要な町や村はこの時期に起源を持っている。リヴィウスが語るトロイ人到来の話はこの時期のものではないだろうか。ラヴィニウム以外にもトロイ人が建設したとされる村が存在する。
紀元前1000ー800年、後にラティウムと呼ばれる地域にはラテン人以外の民族やラテン人と同じイタリック系の他部族も混在していたようである。考古学的調査ににより、紀元前900年代この地域で農業的な発展があり、多数の農村が生まれたことが知られている。ラテン人は殻なし小麦、大麦、ぶどう、オリーブ、いちじくを栽培した。
紀元前700年代になってもこれらの農村が都市へと発展することはなかった。そうした中でラヴィニウム(Lavinium)はラティウムで最も発展した村であり、紀元前7世紀には要塞化された。ラヴィニウムは都市へと成長しいたようであるあるが、断言はできない。「紀元前600年代、ラテン同盟を構成する30のメンバーは村や部族だった」とされてれている。
アエネーアスはラウレントゥムの支配者の娘と結婚し、新しい村ラヴィニウムを建設したが、近隣の部族ルトゥリ人と戦争になった。ルトゥリ人はラティウムの南に住んでおり、彼らの中心的な村がアルデアだった。アルデアはアエネーアスが建設したラヴィニウムから近かった。この時代の地図は存在しないので、数百年後の紀元前600年代の地図でルトゥリ人の居住範囲と彼らの中心であるアルデアの位置を確認していただきたい。
この地図と、現代のラツィオ州の地図を比べると、初期のラティウムの領域が非常に狭かったことがわかる。
ルトゥリ人はラテン人の隣に住んでいたが、ラテン人と異り、イタリック(古代のイタリア人)系の部族ではなく、ケルト人かリグリア人であると考えられている。ラヴィニウムとルトゥリ人の戦争について、リヴィウスが書いている。
====《ローマ史、第1巻2章、リヴィウス著》====
トロイ人がラヴィニウムを建設して間もなく、ルトゥリ人の王トゥルヌスと戦争になった。アエネーアスがイタリアに来る前、トゥルヌスはラテン人の王ラティヌスの娘と婚約していた。ラティヌスの娘が婚約を破り、異邦人と結婚したため、ルトゥリ人の王は怒った。彼はトロイ人とラテン人の両方に宣戦布告した。
トロイ人とラテン人はルトゥリ人に勝利したが、ラテン人の王ラティヌスが戦死したため、勝利を喜べなかった。ルトゥリ人は自分たち戦力の不足を感じ、富裕なことで有名なエトルリア人の町カエレと同盟することにした。カエレの王メゼンティウスはトロイ人の村が誕生したのを不快に思っていたが、トロイ人の村がルトゥリ人に勝利したので、ますますトロイ人を憎むようになり、ルトゥリ人からの同盟の申し出を快諾した。
ルトゥリ人との最初の戦争でラテン人の王ラティヌスが戦死しため、アエネーアスがラテン人の王となっていたが、ラテン人との主従関係は日が浅かった。アエネーアスは
ルトゥリ人がエトルリア人と同盟したことを知り、危険を感じた。彼はラテン人の信頼を得ることが必須と考え、ラテン人に次のように説得した。
「自分たちはあなたたち同じ法律の下で暮らしており、あなたたちに同化しているので、同じ運命の下にある」。
ラテン人たちは納得し、アエネーアスに従うことを約束した。エトルリアは偉大な民族であり、その名声はアルプスからメッシナ海峡まで、イタリア全土に知れ渡っていた。強大な敵に対し、アエネーアスは城壁に頼って守ろうとせず、進んで戦場に向かった。トロイ人とラテン人の結束が強まっていたので、アエネーアスは彼らを信じた。アエネーアスの決死の戦いにより、ラテン人とトロイ人は勝利した。
ラヴィニウムとアルデアの間を流れるヌミキウス(Numicius)川の岸に、アエネーアスの墓が建てられた。この戦争後トロイ人はますますラテン人に同化した。
=================(リヴィウス終了)
アエネーアスの時代は終わり、彼の息子の時代になる。父の死んでから30年後、彼は新しい村アルバ・ロンガを建建設する。アルバ・ロンガはアルバ高地のふもとにあり、美しい湖の湖畔にある。
おそらくその静かな景色ゆえに、アルバ・ロンガはラテン人の聖地となった。遅れて誕生したりローマはその伝統を受け継ぎ、国家の危機の際にアルバ・ロンガで祈願をした。リヴィウス第1巻3章はアエネーアスの息子の時代とアルバ・ロンガ建設の話である。
====《リヴィウスのローマ史、第1巻3章》=====
アエネーアスが死んだ時、彼の息子アスカニウスは幼かったので、彼の母ラヴィニアが摂政となった。ラヴィニウムとラウレントゥムの支配者としてのアスカニウスの地位は安定していた。ラヴィニウムの建設から30年経過し、ラヴィニウムは繁栄し、人口も増えた。アスカニウスはラヴィニウムを母に譲り、アルバ山のふもとに新しい村を建設した。丘の斜面に広がるその村はアルバ・ロンガと名付けられた。エトルリア人に勝利して以来、ラテン人の勢力は着実に伸展し、近隣の部族はラテン人を敢えて攻撃しようとしなかった。テベレ川は当時アルブラ(Albula)川と呼ばれていたが、ラテン人とエトリア人はこの川を国境とすることに合意した。
=================(リヴィウス終了)
アルバ・ロンガは建設されたばかりであり、小さな村だっと思われるが、アスカニウスがラティウムの王だったため、以後歴代のアルバ王がラティウムの王となる。
リヴィウスはアスカニウス以後歴代アルバ王について書いて行き、14代目に至り、やっとローマ建設の話に移る。14代目の王ヌミトルの娘から生まれた男子がローマを建国する。ローマ神話の中で、歴代アルバ王の時代が非常に長い。初代アルバ王アスカニウスの治世は紀元前1176-1138 年であり、アスカニウスの末裔ロムルスがローマを建国するのは紀元前753年である。
初代アルバ王アスカニウスについて付け加えると、彼の生母はラテン王の娘ではなかったとする伝説もある。リヴィウスは触れていないが、アエネーアスはトロイにいた時トロイ王の娘と結婚しており、この最初の結婚からアスカニウスが生まれたというのである。トロイ王の娘(Creusa)はトロイで死に、アエネーアスは幼いアスカニウスを連れて、トロイを脱出した。初代アルバ王アスカニウスは高貴な生まれだった。ラテン王の娘ラヴィニアはアエネーアスの2度目の妻であり、アスカニウスにとって義母だった。
風景画家クロード・ロランは「シカを狩りするアスカニウス」と題する絵を描いている。
リヴィウスはアルバ王2代目シルヴィウスについて「アスカニウスの子であり、森で生まれた」とだけ書いている。これには別の伝説があり、リヴィウスと同世代のローマの歴史家ハリカルナッソスのディオニュシオスはこちらの説を採用している。
===《ハリカルナッソスのディオニュシオスの説》==
Kings of Alba Longa Wikipedia
アルバ王2代目シルヴィウスはアスカニウスの息子ではなく、弟である。2人の父はアエネーアスであるが、母が違う。アスカニウスはトロイで生まれており、彼の母はロイ王プリアモスの娘(Creusa)である。彼の母はトロイで死んだ。アエネーアスはイタリアに来てラテン王の娘ラヴィニアと再婚した。この結婚からシルヴィウスが生まれた。アエネーアスが死んだとき、兄アスカニウスは成人していたが、弟シルヴィウスは幼かった。ラヴィニアは亡き夫の先妻の息子アスカニウスを恐れ、幼いシルヴィウスと一緒に森に身を隠した。ラヴィニアの父ラテン王に忠実だった豚飼いが母子を保護した。ラヴィニア母子が迫害されたことで、ラテン人はアスカニウスを非難し、ラヴィニアを支持した。ラヴィニア母子は森から戻った。アスカニウスは父アエネーアスの死から数えてて30年間統治した。彼が死ぬと、彼の息子ではなく、彼の義弟(ラヴィニアの実子シルヴィウス)がラテン王になった。彼は28年間統治し、彼の息子アエネーアス・シルヴィウスが後を継いだ。プリアモスの娘を母とする系統がアルバ王となったのはアスカニウス1代限りであり、ラテン王の娘の子シルヴィウスの子孫が歴代アルバ王となった。アスカニウスの息子ユルス(Iulus)は王にならなかったことを受け入れ、シルヴィウス系の王に挑戦しなかった。彼の父アスカニウスもユルス(Iulus)という名前だったとされ、ユルス父子はユリウス家の先祖と言われている。
≒================(Wikipedia終了)
①アスカニウス ②シルヴィウス ③アエネーアス・シルヴィウス ④ラティヌス・シルヴィウス
アルバ王3代目のアエネーアス・シルヴィウスについて、リビウスは「2代目シルビウスの息子」としか書いていない。4代目ラティヌス・シルヴィウスについては、「多くの植民地を建設した」と書いているが、それらの新しい村の名前は書いていない。アエネーアス、アスカニウス、シルヴィウス、はそれぞれ新しい村を一つしか建設していないが、リビウスはそれらの名前を書いている。第4代アルバ王が建設した多くの村の名前が不明なのは残念である。発掘調査や偶然により、古代ラティウムの住居跡が数多く発見されているが、ラテン人が文字を持たない時代に存在した村については、村の名前や建設者の名前を書いた碑文が発見されることはない。ラテン人が文字を使用するようになるのは紀元前7世紀以後とされているが、発見されたのは石に似刻まれた碑文数十行だけであり、ローマに関するものである。ローマ以前のラティウムについて書かれるようになるのは、紀元前1世紀である。
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