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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

2011年3月26日 ラタキア 治安部隊員死亡

2017-02-26 19:55:02 | シリア内戦

 

3月26日のラタキアのデモの際、屋上にいた正体不明な銃撃者が、デモと治安部隊の双方を銃撃した、と政府が発表した。ダラア以外で、治安部隊に対する銃撃事件の最初の例である。ダラアのデモは平和的な抗議デモ説いて始まったが、たった数日後には、デモを取り締まる治安部隊が銃撃され、死亡している。少なくとも政府はそう発表している。期間は短かったが、間違いなく平和的だったダラアの最初デモのデモについて確認しておきたい。後半で、ラタキアの銃撃事件について書くことにする。

 

ダラアでは3月16日と17日(2011年)にデモがおこなわれたようだが、くわしいことはわかっていない。当時国際メディアの関心はダマスカスに集中しており、16日と17日のダラアのデモについては報道されなかった。

 しかしそれよりも早い3月11日のデモについては知ることができる。約1か月後の416日に、逮捕された少年の親戚の回想がアルジャジーラに掲載されたからである。回想といっても時間がたっていないので、記憶もかなり信頼でき、ほとんど手掛かりのない時期について知ることができる。

また311に日のデモについての具体的な話により、16日と17日のデモについてもある程度の推測できる。

18日のダラアのデモはその頃のダマスカスのデモにくらべて人数が多く、メディアが初めてダラアに注目した。317日以前のアラアについてはほとんど知られていので、ダラアのデモは18日に始まったことにしてよいと思うが、この日以前について知ることは興味深い。 

416日のアルジャジーラの記事全文はすでに書いたので、3月11日のデモについての部分だけ、再び引用する。

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少年たちが行方不明になり、家族はあちこち訪ね回り、市役所にも相談したが、見つからなかった。金曜日(311日)の礼拝の後、両親と親族とは宗教指導者に伴われ、ダラアの知事であるファイサル・カルスームの家まで行進し、抗議した。

知事の護衛は彼らを追い払おうとしたが、両親たちと押し問答になったので、警察を呼んだ。到着した警察は放水と催涙ガスで抗議者たちを攻撃した。その後武装した政治警察が現れて、抗議する人々に発砲した。

「大勢の治安部隊がやってきて、人々に発砲し、数人が負傷した」と逮捕された少年の親戚であるイブラヒムが言う。

「血が流れるのを見て、人々は逆上した。我々は全員部族の一員であり、大家族に所属している。我々にとって、血の団結は何よりも大切だ」。

政治警察が発砲したというニュースがダラア市内に広まると、最初200人だった集会は、すぐに数百人に増えた。

「我々は平和な方法で、子供たちの釈放を要求していた。しかし彼らの返答は銃撃だった」とイブラヒムは語った。「現在我々は治安部隊といかなる妥協もできない」。

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3月11日のデモはたった200人であり、政治警察が彼らに発砲した。落書き少年の親戚の話は、「平和なデモに治安部隊が発砲した」という主張が正しいことを物語っている。

一方でアサド大統領の主張もほぼ正しい。「最初から治安部隊員が何人も死んでいるのに、平和なデモと言えるだろうか」。

何故なら、9日後の320日、平和なデモに紛れて不明な狙撃者が登場し、警察官7名が死亡する。詳しいことは何もわからない。狙撃者の発砲による、というのは私の推定にすぎない。「警察官7名が死亡」ということしかわからない。しかし政府の嘘とも断定できない。41日には陸軍兵士19名が死亡しているからである。これは襲撃状況がわかっており、陸軍の死亡者名簿によって確認されている。また4月の一か月間に、陸軍兵士88名が死亡している。これらのことはは前回書いた。

 

326日ラタキアで治安部隊に対する銃撃事件が起きた。治安部隊から死者が出た状況が報告されているが、死者数はわからない。BBCとアルジャジーラから引用する。

===Syria unrest: Twelve killed in Latakia protest》==== 

            BBC  327

     

 

326日シリア政府の発表によれば、ラタキアでデモが起き、12人の死者が出た。これは市民・治安部隊双方の死者の合計である。2人の正体不明な銃撃者もこの中に含まれる。負傷者は200名である。正体不明の者たちが屋根の上から銃撃した。軍隊が市内に入り、秩序を回復した。

大統領報道官が次のように述べた。「シリアに争乱を起こす計画がある。ドーハ在住のイスラム教導師シェイク・ユースフ・カラダウィがラタキアでの暴動をそそのかした。彼が25日発言する以前、ラタキアは平穏だった」。

=====================(BBC終了)

 

アルジャジーラは治安部隊の死を伝えていない。銃撃者の死についても書かず、建物に火をつけようとした市民が殺害されたとしている。

==《Deaths as Syria protests spread》======

Officials confirm 27 killed in clashes in cities of Homs, Sanamin, Daraa and Latakia since rallies began on March 15.

       アルジャジーラ 3月27

326日ラタキアで反政府デモが治安部隊と衝突し、3人以上の死者が出た。

シャーバン報道官が述べた。「武装グループがいくつかの建物の屋上を占拠し、無差別に市民に向けて発砲した」。

この日ラタキアでは葬式があり、参列者と治安部隊が衝突した。一部の市民がバース党の建物と警察署を焼き討ちした。

エジプトに亡命しているシリア人(Ammar Qarabi)がロイターに語ったところでは、放火しようとしている市民に治安部隊が発砲し、2名が死亡した。

タファスでは怒った住民が警察署とバース党支部の建物に火をつけた。この日タファスでは前日(25日)のデモで射殺された3人の市民の葬儀が行われていた。タファスはダマスカスの南方にある町である。(BBCの地図参照)

政府発表によれば、315日から26日までの全国の死者の合計は27名である。

=================(アルジャジーラ終了)

実際の市民の死者数は政府発表より多く、50名を超えている。

 

     〈ラタキア〉

ラタキアはダマスカスの北西350kmにあり、地中海沿岸の都市である。

 ラタキアはセレウコス朝やローマ時代に、ラオディケイアと呼ばれた。キリスト教を地中海東岸に布教したパウロはラオディケイアの人の信仰が生ぬるいことを嘆いている。パウロは繁栄する都市の富裕層への布教に失敗することもあった。

ラオディケイアの繁栄について、ローマ時代の地理学者ストラボンが書いている。

「ラオディケイアは良港を擁し、豊かな土地に囲まれている。特にブドウがよく実り、エジプトのアレクサンドリアで消費されるワインの第一の産地である。葡萄園はなだらるに広がり、頂上までのほとんどを占め、さらに山を越えて広がっている」。

   

2000年後の現在でもラタキアではブドウが栽培されており、ハマ県との県境に連なるジャバル・アンサリーヤ(アンサリーヤ山地)で作られるワインは品質が良く、ヨーロッパの高級レストランで飲まれている。

  

   

 

   

 

ラタキア県ではアラウィ派が多数を占め、アサド政権の最も強い支持層を形成している。大統領をはじめ、バース党幹部、情報機関と軍の将校はアラウィ派で固められているが、アラウィ派の居住地域は極めて偏っており、地中海沿岸のラタキア県とタルトゥス県に集中している。この2県はアラウィ派の牙城であり、彼らが中央の政権を失った場合、ここに分離国家を打ち立てるだろう。

 

   

ラタキア市の東に空港があり、ロシアはこの滑走路を整備し直し、最新鋭の戦闘機が発進できるようにした。管制塔、航空隊員の宿舎なども建設した。201594機のSu-30S戦闘機、12機のSu-25攻撃機、7機のMi-24攻撃ヘリコプターがここを基地としている。(シリアのラタキアをロシアが「ラバウル化」)

 

空港の東にカルダハ村があり、ここがアサド大統領の故郷である。(上記地図参照)

 

1922年フランスが統治したシリア・レバノンは5つの州から成っていた。アラウィ派とドゥルーズ派にそれぞれの州が与えられた。後にレバノンだけが分離独立し、残りの4州がシリアを形成した。

 

 

近代国家としてのシリアの歴史は浅く、第一次大戦後各地方の寄せ集めの状態でフランス支配下に入った。国境を決めたのもフランスである。ハタイ県は現在トルコ領であるが、フランス統治時代、アレッポ州の一部だった。地図にあるように当時はアレクサンドレッタ地方と呼ばれていた。第2次大戦の直前、トルコがドイツと同盟することを恐れたフランスは、アレクサンドレッタ地方をアレッポ州から切り離し、トルコにプレゼントした。大戦後シリアはフランスから独立し、トルコにアレクサンドレッタの返還を求めたが、無駄だった。

 

ハタイ県はシリアの反政府軍の成長に最大の貢献をしてきた。

20116月という早い時期に、最初の武装反乱が起きたのはジスル・アッシュグールである。ここはトルコ国境に近い。

ジスル・アッシュグールはトルコからイドリブ県へ入るときの玄関の役目を果たし、反政府軍にとって最重要な拠点となった。ここを出発点とし、反政府軍はイドリブ県とアレッポ県南西部にまたがる広い地域を征服し、反政府軍最強の支配地をつくりあげた。

 

 

ラタキア県は主要進撃路の反対側に位置するため、反政府軍にとって後回しの課題となった。時々ラタキア県東北部に侵入し、住民を虐殺したりしたが、征服するに至っていない。

タキア県全体から見ると、北東部は例外であり、ラタキア県の大部分は内戦と無関係で、平和な別天地であった。

 

冒頭で述べた、326日の事件は線香花火なようなもので、それだけで終わった。この時期ダマスカスもアレッポも平穏であり、ラタキアもそうであるはずなのに、326事件が起きた。「ラタキアで騒動が起きるはずがない。陰謀としか考えられない」と報道官が顔をしかめた。

 


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