道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

恋は揮発性

2023年05月25日 | 恋愛
齢の所為で、年々男女の交情に疎くなる一方である。
恋愛をしなくなったらもうお仕舞いだと、ある年頃まで見栄を張っていたが、お仕舞いになってからン10年も経つと、経験不足の老生の恋愛論には何の説得力もない。孫に冷笑されるのがオチだろう。
それでも恋愛は個人の人生にとって、心を悩ませる最初の重大事、お役に立つかどうかわからないが、一老人の陋見を披歴させていただきたい。

所詮男女というものは、誠実な恋愛をしても、自分と相手を幸福にできるのは、恋愛初期のごく僅かな期間だけのことである。互いを知れば知るほど、最初のときめきは薄れ、引力が弱まる。これは恋に普遍の経過である。
恋情に偽りはなくても、幸福を実現できる見込みは、つまり当初切望したはずの恋の成果は、必ずしも得られないのである。
好きになった異性を真の幸福に導く決め手は、恋愛当事者のどちら側にも具わっていないと結論せざるを得ない。

恋愛の相手を幸福にしようと切実に願いながら、傷つけてしまうことは、恋愛中の男女にはよく起こる。
恋をしているからこそ頻発すると言ってもいい。相手を愛しいと思う恋情が昂じて、却ってそれを妨げる不可思議な作用が、恋には潜在している。

もし恋の相手が、幸運にも誤解と錯覚によって自分を好いてくれたなら、諦めて好かれたままを維持する努力を惜しまぬことが良い結果をもたらす。
もし自分が、不運にも誤解と錯覚によって相手を好いてしまったなら、観念して好いたままを維持する努力を惜しまぬことだ。誤解であれ錯覚であれ、お互いに好き合ったという事実と確信さえあれば、男女は頼りにならない恋愛感情を真の愛情に繋げていけるものである。

恋というものは本質的には揮発性のものだから、雲散霧消する特性を具えている。永遠の恋などというものは空想、敢えて言うなら妄想に近い。死ぬの生きるのとの騒ぎは、後に冷静になって省みれば、愚かの極み狂気の沙汰である。
真実の恋であっても、軽佻浮薄な恋の空騒ぎであっても、恋の本質は変わらない。恋愛を過大評価して、それに信頼を置くのは、絶対に避けるべきである。

種の繁栄を最大の目標にしている生殖本能に誘発され、精神が昂揚した結果恋情が触発されるのだから、恋愛に理知が宿ることはほとんどない。また男女の間で、真(まこと)の愛が自然発生するはずもない。愛というもの、情動だけでは生成も保守もできない。
精神作用が加わらなければ、愛は生まれない。
恋の余韻の残っているうちに、家庭を築き子どもを育て、肉親愛を柱にした夫婦愛を確立すべきだろう。

畢竟男女というものは、互いに好き合うだけでは幸福になれない。エゴイズムに発する恋愛感情の不条理によって、恋の成就が愛の形成に連動することはなく、常に破綻のリスクを免れない。家庭を築くことなしには、男女は幸福を共有できないように造られている。
万一子どもが得られなかったら、夫婦協力して育てあげる何かを見つけるべきだ。成長を共に欣ぶことができる何かを見つけ、生涯その欣びを糧に幸福感を保ち続けるより外に、男女が心からの倖せを実感する方法はないように思う。



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