江戸期の宿場時代から今日まで、醒井の町中を貫流する小川に美しいバイカモの花が咲き続けているのは、清く冷たい水が豊富に湧き出ているからだろう。
駅前からバスに乗る。約15分で谷間の終点、醒井養鱒場バス停に到着する。滴るような緑と沢の瀬音に、深い山中に居るような錯覚を覚えた。
養鱒場では、醒井峡谷の冷い伏流水を利用して、ビワマス・イワナ・アマゴ・ニジマスを養殖している。これら陸封されたサケ科の渓流魚は、18度Cを超える水温では生きられない。養鱒を事業にしている地域は、何処でも夏は涼しい。
避暑というと、高原を思い浮かべがちだが、低地であっても、山の雪融け水が地中深く浸透し、その伏流水が至る処で湧き出しているような場所は、川筋一帯が冷房されているようなもので、山地の多い日本では、探せばいくらでも見つかる。そのような場所は、養鱒場として好立地だった。
海外から養殖サケ・マスが大量に輸入されている昨今、食用としての日本のニジマス養鱒事業は衰退しつつあり、養鱒場は減る一方だ。街からの交通アクセスに恵まれた養魚池だけが、ルアー釣り場などに変身し、辛うじて事業を続けている。
古い話になるが、停車駅のプラットホームで、列車の窓から駅弁を買う光景がごく普通に見られた時代、米原駅の名物は醒井養鱒場の鱒を1尾まるごと押し寿司にした「鱒の姿寿司」だった。押し寿司と云っても富山駅の「鱒の寿司」とは、使う魚種と風袋がまったく違う。したがって味も異なる。
当時の名古屋から西の東海道本線では、夏場は岐阜駅の鮎寿司と米原駅の鱒寿司が人気を分けていた。毎夏親に連れられ北陸線を行き来したときの列車は、浜松で乗るとちょうど昼どきに米原駅に停車し、昼食は鱒寿司が定番だった。その頃はまだ小学生だったが、姿が興味を惹いたのか味そのものが気に入ったものか、それは好物のひとつに加わった。その駅弁は10年足らずで消えてしまった(注「元祖鱒寿司」は、米原駅弁当販売の井筒屋さんで現在も店頭販売中)。人々の食の好みが変わったのだろうか?
寿司のルーツは熟れ寿司とか。押し寿司が熟れ寿司のインスタント版なのかどうかは知らないが、にぎり寿司より歴史は古い。伝統の押し寿司が退潮気味なのは、どう考えても惜しいと思う。
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