道々の枝折

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合理の精神と和合の精神

2025年01月21日 | 随想
理に合わせることよりも和を優先する社会というものは、その社会を構成している人々が、「理」に依拠しなければならない局面でも、敢えて「和」で乗り切ろうとする習癖を保っているのではないかと思う?

「理」は論拠を要するが、「和」は論拠を省いて多数の同意さえあれば、事を決することができる。同意・合意を何よりも優先する和を尊ぶのは、数の優勢で事を決することができるからである。逐一論拠を示して事を決定に導くのは、合理性を尊ばない人々にとっては手続きが煩瑣で苦手だろう。

議決の場で理に拠らないで多数派を形成するには、常日頃から和を最優先して多数派を確保していなければならない。論拠を要す理よりも和を重んじる心は、正当性よりも、自分の主張を押し通そうとする我執に捉われているのである。手間暇かけずに自分の意図する方向に集議を決するには,和に基づく意思決定が最も有効である。それが、理を尊ばない人々を和に依拠させている大きな要因である

彼らは和の綻びを懸念するあまり、和を乱す者に不寛容にならざるを得ない。空気を読み忖度を忘れない和の社会ができあがると、理はますます影を潜め、存在の場を失う。

本当は、合理性を具えた人たちの発想や意見を高く評価し重んじる社会でなければいけないと思う。
日本社会で盛んに遣われる調整力などという言葉は、和の社会でしか通用しない言語である。調整に長けた者に斬新なアイデアや発想は無い。
均衡を計る調整は社会にとって必要だが、それは能力の範疇には入らない。調整は理非曲直を曖昧にし、抜本的解決手段の出番を奪うものである。

内輪での紛争で、分裂を避けようという時に調整が必要になる。見せかけの融和で保たれた集団には常に不協和音が生じ、分裂の危機を孕みがちである。それを何とか収めようとするから、調整に出番が回って来る。偶々調整に成功すると、自他共にそれを能力と見做し、調整役の肩書きを獲得する。
だが調整役は、元々実行力を持たない存在で、根本的な解決を主導するには向かない。

合理性が最優先でなければ、妥協によって成り立つ和などは何ひとつ有益・有効なものを生まない。
多数で合議して生まれたアイデアが、ほとんど実際の役に立たなかった事例は、歴史にも現実にも無数にある。
重大事案の解決を、最大公約数的発想を以て乗り切ろうとするスタンスは、明らかに卓越したアイデアの欠如を示すものである。

思考というものは、限りなく個別的なものだから、和を優先するとどうしても個の発想や意見は阻害される。個性が示した提案は、合理性の有無を尺度として評価されなければならないのだが。

合理的な個性に寛容でない社会、自分と違う個性を尊重するおおらかさが乏しい社会は、優れた個性を逸失しがちである。その社会的損失は量り知れない。

実在かどうかも定かでない、聖徳太子が制定したという17条憲法の第1条には「和を以って貴しとなす」と記されているらしいが、おそらく当時の行政当局者が、中央集権・専制主義を確立するために太子の威光を利用したに過ぎないだろう。それを事実とし、金科玉条の如く有難がり、もっぱら和合の精神を奉っていては、少数派の傑れた個性を育成することができなくなる。

民族から合理の精神が失われると、その民族は手痛い損失を蒙る。
敗戦、55年体制、失われた30年、マイナンバーカードとインボイス等は、どれもが合理性欠如の延長線上にあった。
和の社会ほど、衆議に際して忌憚なき発言を求めるが、それは本音でなく建前である。
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