ところがおとなしい草食獣も、生殖の時期を迎えると、卓れた子孫を遺すために気性が荒くなる。生殖に脳が集中する結果、オス同士はメスをめぐって激しい闘争を展開する。相手の雄を殺すこともある。この時期には、彼らの眼に優しさはないだろう。オスの脳はひたすら好ましいメスの獲得に集中する。怕い眼になっているのだろう。草食獣のオスが定期的に荒ぶることを抑えるには、去勢しかない。
常に荒ぶる猛獣が人間に飼育されて獲物を獲る必要がなくなると、ぺット化し野性を失う。そして人に懐き眼から凶々しさや猛々しさが消える。
アラブの王侯や貴族の中には、ライオンをペットにしている姿をインスタグラムに公開している人がいる。専門の飼育員を幾人か雇っているからできることだろう。
同じように世の中には、トラやヒグマを飼う人がいる。動物の研究者たちの中にも、観察のためか猛獣と親密に暮らしている人は多い。それら人に飼われ人に懐いた猛獣の眼に、野生時代の凄みはない。狩りをしないということは、猛獣をこうも和ませるものだろうか?
食餌の獲得の仕方が変わると、先ず脳がその影響を受け、その脳の働きが眼に表れるのだろう。眼は、脳が集中していることを如実に映し出す。飼育されているライオンの脳は、飼主から餌を与えられることに専ら集中する。甘えることすら覚える。
足が蹄に進化した草食動物たちの眼が優しいのは、動物を捕食する欲動が皆無だからだろうが、その彼らも生殖の欲動を覚えると、別の生き物のようになる。ちょうど肉食獣が獲物を捕食する時の欲動に近いものかも知れない。
雑食性のクマやタヌキとなると、生き餌ばかりが餌ではないので生活に余裕を生じるのか、両極の動物の中間的な眼をしている。食性にバリエーションがあるので、欲動が強固でなく、生きることの切迫感が比較的少ないのではないか?
このことから推理するに、獲物を見つけ出し、確実に捕食することに集中する欲動の強さの違いが、それぞれの眼の表情をつくっているようだ。狩りをする猛獣の、all or nothingの日常生活は、洵に厳しいものがあるのだろう。
食物に対する欲動が脳を変質させるのだろうか?生活環境の影響で眼が変わるのなら、脳は思っているより変化しやすいフレキシブルなものかも知れない。
しからば、動物の進化は、適応であれ淘汰であれ、脳に依拠しているということになるだろう。私たちは脳が強く集中する方向に進化して来ているということだろうか?
肉食性でも、イタチ・テン・オコジョなどは体が小さくとても愛らしい姿をしているが、その可愛いつぶらな眼に優しさは豪も感じられない。非情なプレデターそのものの眼である。雑食獣のクマやタヌキとなると、どこか眼に愛嬌が感じられる。食性が動物の眼に変化を与え、その動物の個性を特徴しているのは洵に興味深いことだ。
人も個性が眼に徴されていること、動物と些かも変わらない。動物よりも遥かに脳が発達しているのだから、脳が集中することは、眼に如実に顕れる。優しい眼、温かい眼、実直な眼、怜悧な眼、聡明な眼、可愛い眼、愛嬌のある眼、冷徹な目、非情な眼、凶悪な眼、時々刻々眼は心の内面を映し出す。実に眼は精密な脳のディスプレイである。
「目は口ほどに物を言い」とは、この事情を捉えている。眼は自らの内心、則ち目下脳が集中していることを映しだすディスプレイと見てよさそうだ。
私は若い頃から人の眼を凝視する悪い癖があって、それが原因の失敗が多かった。観察は凝視・熟視を伴う。それでいて学校時代は、授業中の教師の眼をよく見ていなかった。眼が合うと当てるからである。聴く言葉に集中していると嘯いていたが、実は上の空で聴いていなかった。不真面目な生徒である。
当てられても困らない優等生は、教師の眼をよく視ているものだ。
相手のディスプレイをじっと視るということは、それに集中していることだから、人によっては、それを不快に思う。内面を隠したい人ほど、不愉快だろう。
貴人に拝謁する時、眼を直視することを無礼とするのは、洋の東西を問わず古来当然の作法だったが、ステイタスの高い人が直視を嫌うのは、常に伏し目にしか接していない生活に馴れた結果だろう。土下座・平伏は、中国由来なものか?わが国固有のものか?
異性は相手によって直視に対する対応に違いが出てくる。女性は見ず知らずの男性から凝と見つめられるのは不快なものだろう。逆の場合は、大抵の男性は悦ぶだろうが、そんなことは、滅多にあるはずも無いが・・・
ディスプレイに自分の内心を表示させないで世を渡る人は、自分の眼を凝っと見て話す人を嫌いになるだろう。本当は、そのような人物には嫌われて善いのである。正視を避ける者とは、距離を置いて接するのが正しい。
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