当地浜松の、三方原台地の地平線の彼方に、薄青みを帯びて連なっている山並みは赤石山脈である。
赤石山脈(南アルプス)は北岳(3193m)を最高峰に、主稜線は南に延々約100kmに及ぶという。支稜を含めれば稜線の総延長300kmを超すかもしれない。山域は甲斐・信濃・遠江・三河の4ヶ国に及ぶ。
名称の由来の赤石と呼ばれる放散虫(ラジオラリア)化石の赤い礫を、天竜川の本流の至る所で見つけることができる。
300万年前に、二つのプレート上にあった本州と伊豆半島とが衝突したという。その後100 万年前頃から山地が急速に隆起し始め、赤石山脈ができたということだが、現在でも隆起は続いているらしい。
この年間3mmの急速な隆起と、温暖多雨な気候による侵食作用によって、赤石山脈は飛騨山脈や木曽山脈とは異なる独特の山容を呈するようになった。
赤石山脈は現在でも、速い速度で成長している。 海のプレートの圧力がその原因だが、それは東南海大地震の発生要因とも関連しているのだろう。
人の好奇心は、身近なところから同心円状に外に向かって拡がるのが自然である。いきなり飛躍したりはしない。物理的・意識的に手近な対象を具に観たり触れたりすることから始まり、より遠くにあるものへと興味は発展する。私の場合は,山への関心は赤石山脈の末端の山、竜頭山(1352m)だった。
大切なことは、自分の感性が捕捉しなければ、興味や関心は芽生えないということである。
海跋0mから隆起した山地が、数百万年かけて北岳を富士山に次ぐ標高に押し上げた。これには驚いた。其処から尾根をたどり、降り続ければ、静岡・愛知県境の弓張山脈(湖西連峰)に至り、尾根は三河湾に沈む。
山体が大きく森林が深く、交通アクセスにも恵まれなかった赤石山脈は、幸運にも明治以後の近代アルピニズムの悪影響を受けなかった。
徳川幕府の直轄地だったこの山脈の山林を皇室財産にした明治政府は、後にその主要部を民間(実業家大倉喜八郎)に払い下げた。
国有林が大半を占める飛騨・木曽の二大山脈との大きな違いは、山域の殆どが私有林であることである。
日本の高山はヨーロッパアルプスの亜流ではない。亜流と思うのは、近代登山を欧州人に教えられ、彼らに御嶽・富士山を除くほとんどの高山の頂を踏破されたからである。登山の植民地意識とでも言おうか。日本の近代アルピニズムとは、先達となったインテリ登山家の拝欧意識の色が濃く、それは特に岩稜の多い、氷河地形の多く遺る飛騨山脈に集中した。
実は日本の高山は、そのほとんどが、江戸期よりも遥か以前に、山岳信仰の行者たちによって登頂されていたらしい。記録が無いだけである。それはヨーロッパアルプスやヒマラヤ山脈でも同じ事情であって、どちらもほとんどのピークは、現地の住民が古い時代から登頂していた。金にあかしてポーターを雇い、初登頂を競う近代のヨーロッパ人登山貴族の登頂競争の前に、現地の人々は沈黙したのである。
人間が山に神性を感じ頂上に惹かれるのは、有史以前からごく自然の行為であり、それは何万年に亘って繰り返されていたのである。この世に人跡未踏の山があると思いたかったのは、暇とお金と冒険心を持て余していたヨーロッパの貴族たちの功名心である。それでいて彼らは、現地住民の経験と知識に100依存していた。
明治の日本人登山家たちが、イギリス人のウォルター・ウェストンが日本アルプスと名付けたことに抗議もしないで受け入れてしまった事実は嘆かわしい。ウェストンの日本アルプス登頂には、名もない猟師や木樵のガイドたちの嚮導が大きく寄与していた。彼らにとっては、初登頂でもなければ、探検でもない日常の延長であった。
山はどこの国でも、喩えヒマラヤでも、何万年もの間、現地の人々にとって庭のようなものであったろう。
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