道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

街歩き

2019年11月06日 | 人文考察

私がを歩くのは、市井の風俗に触れ人々の観察ができるからである。市井は私の生まれ故郷であり成育の場だった。今老いて、再び故郷に足を運んでは、自分と見知らぬ人々とを観察する。追憶とは違うようだ。変化の激しい街は、追憶には適さない。

私は人も鳥や獣と変わらない自然的存在であることを強く意識している。人間だけが自然界に君臨すべき生物とは見ていない。自分も含め人間と動植物を客観的に同列に置いて観ることは、自然観察の要諦であると心得ている。

司馬遼太郎はエッセイの中で、散文を書くときの心得の1つとして「自他の観察」を挙げている。私は司馬史観に得心している者ではないが、この御説は尊重し、ブログを書くときばかりか日常生活においても、これを大切に守っている。

人は何を措いても、自分に対する観察すなわち省察が最優先されるのでなければ、物事の判断を誤る。省察のできない人間に、他者を正しく理解できる筈がない。省察無くして洞察無しである。したがって正しい批判をすることもできない。省察の無い心に真実は宿らないと思う。

自然観察において、自分を含む人間ほど興味深い対象は無い。知能を有し、変幻自在に社会行動をする人間というものを知るのは至難のワザである。観察というと一般には人間を除外するが、知恵ある動物としての人間の行動ほど、興味を唆るものはない。ただ、観察対象に不快の念や迷惑をかけるのは絶対にあってはならない。細心の注意を要する。これはあらゆる対象に共通することだが、社会的存在でもある人間には、十二分な配意が欠かせない。

人間の社会的行動に対しては、観察も研究も比較的容易で、学問として確立してもいる。しかし人間本来の動物的行動に対しては、人権やプライバシーに格別の配慮が必要な為研究は遅々として進まず、学問としても未だ確立されてはいない。

しかしながら、社会的行動の前提に動物的行動があるのは明らかだから、この面の研究が進まないことには、あらゆる社会科学の基盤が不安定なものにならざるを得ない。社会科学が自然科学に比して学問として明瞭性を欠くのは、この点に尽きると思う。

人が人混みに好んで集まるのは、より詳しく人間というものを知りたい潜在欲求が互いに働いているからかもしれない。人のことは、自然観察の基本どおり、人が蝟集するフィールド=に出なければわからないということだろう。

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