道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

政治的混乱は政治家を識る好機

2010年04月22日 | 人文考察

マスメディアは、政府の失態やら閣内不統一、そして野党の弱体化をあげつらい、連日、政治的混乱の報道で世論を煽り立ている。

コメンテーターの発言など聞いていると、目を覆いたくなるばかりの無策とか拙策とか言って、誰もが同じ論調。彼ら彼女らのペダントリーぶりの方が耳を覆いたくなる。連中は見識があるように見えてその実甚だ不見識であって、実行を伴わない理論は空論でしかないことを、自身の肝に銘じてもらいたい。

批判なら誰でもできる。報道バラエティーのキャスターとコメンテーターとのやりとりは、床屋談義でしかない。ニタニタと間抜け面を並べて、視聴者に対してもっともらしい意見を述べているが、はたして彼らに、この国の政治を論評をする資格があるのだろうか。

政治というものは、本来混乱するものである。紛糾するものである。利害の不一致を調整するのが政治であれば、それぞれの支持集団の投票によって支えられている政治家は、投票者=支持者の意を汲むものである。支持集団が対立する政治家同士は、反目しあうものである。

混乱のない政治とは、国民の目に粛然と行われている政治とは何か。それは、専制政治であろうし、独裁政治である。もしそれが民主的に見える政体であるなら、その実体は、混乱を国民の目に見せないよう密室で協議したり裏で談合する政治だろう。長くこの国の政治で続けられてきた、不透明で不明朗な、選挙民を欺瞞、愚弄する政治ということになる。

整然とした政治は、国民に秘密な部分、見えない部分が大きくなるものである。民主政治というものは、甲論乙駁、喧々囂々の議論によって、より安全な政策を実現させるものである。

また、政治指導者に過大な期待をするのは間違っている。宰相、大臣といえども、政治家の能力・資格は、選挙民には審査のしようがない。選挙民の支持は、自己や所属する集団・階層の利益に基づいているのであって、選挙民の支持の大小は、何ら政治的な資質・能力と関係がない。政治的な能力は、単純に数値化できる学習能力とは関連しない。理解力、判断力は推定することができるが、交渉力そしておそらく最も優先されるべき能力である決断力は、客観できる指標がない。

国民に開かれた政治は、常に国民の前に混乱を露呈する。選挙民が国政を付託するに足る政治指導者を選択できない以上、我々はその混乱を注視し、真の政治家を見極めなければならない。ドタバタ、混乱大いに結構。混乱こそ、ホンモノとニセモノがはっきりと顕れ、我々の識別を助けてくれる。安定した政治状況の下では隠されている政治家の本性は、混乱、動乱においてこそ、必ず顕れ、はっきり見えてくることを、好機と捉えなくてはいけない

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