私は遺憾ながら宗教をもたない(浄土真宗の檀徒だが信仰していない)人間だが、40代の頃にはキリスト教徒(プロテスタント)になろうと思い立ち、4年ほどの間、毎日曜教会に通っていたことがある。それでもとうとう洗礼を受けるに至らなかったのは、偏に私の猜疑心が強く、素直に教条・教義を受け入れることができず、教理を理解できなかったことに原因があったと思う。
それでも、目に見えない力の存在を信じるようになったのは、その時の学びが大きく影響しているように思う。
人智から生まれたものを尊崇しないという意味において、私は明らかに無信仰である。
私はその時以来、造物主の存在を意識するようになり、その意思というものを考えることが多くなった。
これは人の意思だろうか?それとも造物主の意思だろうか?ということをいつも念頭に置いて考える癖が身についている。造物主の意思とは、自然の摂理、別の言い方をするなら、漠然としているが進化の方向性であると理解している。
人類の進化が辿って来た行程を確かめ、成る可くその進路から外れないよう生活することを心懸けている。進化の方向性を造物主の意思と見ていることは間違いない。これは明らかに進化のメカニズムを造物主と考えていることにほかならないと思っている。
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