道々の枝折

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闕けている言葉

2013年12月31日 | 随想
森鷗外は、随筆「当流比較言語学」の中で、「ある国民にある言葉が闕けている。なぜ闕けているかと思ってよくよく考えてみると、それはある感情が闕けているからである」と述べている。
 

感情が闕けているということは、その感情を呼び起こす源の思念や観念、概念が闕けているということだろう。それらを示す言葉は、事物の名称と異なりその国民の精神、思想から生み出される抽象語であろうから、その国の言語の抽象語の量は、その国民の精神生活のバロメーターと言える。

文化は水と同じで高きから低きに流れるもので、低い側では高い側から書物でもたらされた抽象語を、自国の言語に訳出する必要が生じる。ところが、もともと自分達の語彙にはそれに相当する言葉がないから、原語をそのまま流用するか、新たに自国語で造るしかない。したがって、高い文化を短期に吸収しなければならない時期には、借用語や造語が急増する。人々は先ず新来の言葉の洪水に遭遇し、その後徐々にその言葉の意味するところを理解し、実感する経過を辿る。

この国は、大化の改新前後に中国から、明治維新後には西欧から、2度にわたる文化の大きな流入があった。奈良時代は文字(漢字)と言語が共に移入されていたはずで、漢語をそのまま流用することで事足りたが、幕末・明治初期には、当時の日本語では訳出できない西欧語を、時の学者・翻訳者が苦心惨憺して造語した。これが西欧の知識、学問を理解吸収するための和製漢語、明治訳語と呼ばれているものだ。

これらの新造語は、先ず当初は大学教育の場で多用され、明治期を通じて一般に普及し、今日あたりまえの日本語として通用している。ここでは、それらの訳語をいちいち挙げないが、それら明治時代に急造された新造語によって、日本人は短期間のうちに西欧近代の自然科学と人文科学、芸術を学びとることができた。

しかし、文字の意義は理解できても、その言葉の示す内容は、もともとこの国に無い思念や観念・概念、感情であったから、わかったつもりでも本質を把握するまでには至らないこともある。鷗外が指摘する通り、ある感情が闕けていて、ある言葉が無かったのだから、何とか間に合わせた訳語には血が通っていない。元の思想、概念を生んだ精神の移植にまでは至らない。

私たちの国の近代化は、字面では分かっても本質を把握できない言葉で西欧の知見を取り入れ今日に至っている。皆が分かっているつもりでいても、実は私たちの内面と共振しない思念や概念が意外に多いのではないだろうか?

例えば博愛とか平等。今は中学生でも識っている言葉だが、江戸時代の人の脳裏にはそのような概念はまったく無かった。この言葉の意味は頭ではわかっても、私たちの体質にはなじまないもののように思える。キリスト教徒でない私たちには、心底から理解できない概念であろう。

厳密には明治訳語でないが、民主と云う言葉も、この国にそぐわない概念なのだろう。様々な場面で、民主的でない本当の貌が露呈する。民主国家アメリカは、1945年以後の占領政策によって、日本を民主化したと考えているが、どっこいそんな生易しいものではない。表面は民主化されたように見えても、私たちは彼の国の人々の考えるデモクラシーとはおよそ似て非なる民主主義を実践している。

太平洋戦争の先勝国アメリカは、軍国主義をこの国から排除し、日本の国民が希求していた民主化に成功したと思っていたが、数千年にわたって事大主義、事なかれ主義を墨守してきた日本人は、そんなものは願ってもいなかったはずだ。民主と謂う概念が体質にないとしたら、それは是非の問題ではない。今アメリカの政治指導者たちは、その現実に直面して驚いていることだろう。

日本常民史を構築し、「日本人とはなにか」を問うた民俗学者の柳田国男は、座談集「日本人」において、無念の思いを籠めてこう語っている。「日本人が三千年、五千年前にはいってきたとしても、その時すでにある癖、たとえば事大主義というようなものをすでにもっていたかもしれない。まあよくわかるのはそんなものだ。事大主義などというものは、本国からたずさえてきたかもしれないね」・・・

もともとこの国に闕けていた言葉はたかだか200年足らずでは身につかない。適訳であっても、その語を有用とみなして濫用したり、過剰に依拠しないほうがよさそうだ。そうでないと、書く方と読む方との間で、文章の意味の理解に、延いては思想の伝達の上で、微妙なズレを生ずるおそれがある。新来の外来語に飛びつく癖は自戒することにしよう。

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