道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

本性の解放

2019年03月21日 | 随想

インターネットのSNSサイトの発達によって、私たちは共感願望・同化願望・自己顕示欲求・自己承認欲求など、人間が心の内奥に潜在させている諸々の願望や欲求を、容易に顕在化するツールを手に入れた。

インスタグラム、フェイスブック、ツイッター、ユーチューブなどを見ると、画像・動画や文章の評価の数が膨大なことに驚く。拡散の効果はこれまでの媒体の比ではない。閲覧数が普通では見られない数字である。しかも反応が極めて速い。

コンテンツの投稿は誰にでもでき、それへの反応によって、願望や欲求が満たされる生活が日常的になっている。ネット上には文字・画像・映像・音声などが溢れ、それを観た人々は❤️なり👍なりで共感を示し、コメントを付け、フォローする。

これまでは、願望や欲求の満足を得るには、営々と時間をかけて努力し忍耐を重ね、リスクをとることが必要だった。帰属する社会に承認されて初めてそれらは得られるもので、決して一朝一夕に易々と実現するものではなかった。

それが、ネット社会においては、いとも簡単に瞬時に実現する。しかもそこでは、投稿者と閲覧者の立場は入れ替わり立ち代わり相互に代わる。インタラクティブな関係は、互いに肯定し合い、共感することが予め予定されている。

投稿者が自分の願望や欲求に使嗾されて制作したコンテンツは、必ず誰かの目に留まり賛否の反応がある。内容によっては何万、何十万という数に上る共感や肯定の合図が投稿者に寄せられるのだから、その満足感の大きさは想像を超えるものがある。だがそれは、本物の共感、同化、承認であろうか?単に満足感の共有というものではないか?

自己の全人格でSNSの投稿に応え賛同をしているとは思われない。どこかに、バーチャルな空間での応答に過ぎないという、安易で軽躁な気分に煽られていることはないだろうか?

かつて「笑えたCM」という記事を当ブログで書いたことがあったが、まさに部外者にとっては「ほんで?」に過ぎないことを、誇大に受け止め合って自己満足させられているのではないか?それは他ならぬSNSの運営者の企図したものであろう。

プロフィール以外に何ひとつ知らない人々の間の是認というものは、果たしてどれだけ信頼に足るものであるか?それは本来個体や液体であったものを気化させ膨張させた気体のようなもので、存在は確かだが手で掬い掴むことができない、希薄なものを相手にしているのではないか?

人間はこれまで、他人の主張や意見に寛容であった時代を経て来ただろうか?歴史を繙けば、不寛容と抑圧の社会が連綿と続いてきた。人は互いにそれほど寛容ではない。だから寛大が最高の徳目に位置づけられている。

私たち人類は、長い歴史の中で、リアルな世界では願望や欲求を露わにしないもの、隠すべきものという暗黙のルールのもとに生活を営んできた。心の奥底に潜む本性を、むやみに露出しないよう躾られた。人の心奥にも踏み込んではいけないと教えられた。それが生活の知恵だったからに違いない。だから、非リアルな演劇や映画・ドラマ・小説に人々は熱中できた。

永い間、心の奥底に隠されてきた本性は、今や誰もが臆することなく陽の下で自由気儘に動き回れるよう解き放たれた。良い方向に向かうのか、悪い方向に向かうのか、皆目わからない。

願望や欲求を日常的に相互に曝け出すという、人類が初めて体験するこの事態は、私たちに何をもたらすのだろうか?

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