道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

大平城

2013年05月01日 | 歴史探索
平安時代以降戦国時代まで、浜名湖東岸で勢力を保っていたのは井伊氏とその支族だった。

今川氏が織田信長に破れ、遠州を松平家康が支配するようになると、24代井伊直政は家康に服属し、今川統治時代に失っていた旧領を取り戻した。その後家康の側近となり、数々の武功を立て、近江彦根藩の礎を築く。直政は井伊氏1000年の中興の祖ということになる。

直政の時代を遡ること250年の南北朝争乱の頃、ときの井伊氏の頭領行直(道政?)は、遠州に下向した後醍醐天皇の皇子、宗良親王を援けて北朝方を迎え撃った。当時の井伊氏は、浜名湖東岸の井伊谷に居館を構え隣接する高地、三岳山城を中心に、西に千頭峯城、南に鴨江城、東に大平城、北に田沢城の5つの支城を構える遠州随一の豪族だった。

延元3年(1338年)、嵐に遭った南朝軍の船団が難破し、宗良親王は部下と共に引馬(浜松)の白羽湊に漂着する。井伊谷に宗良親王を迎えた行直は、都から急派された北朝方の高師泰らの軍勢と戦う。攻防1年余、鴨江城、千頭峯城、三岳山城の順に陥落し、最後に拠った大平城も暦応3年(1340年)に落城。宗良親王は信州に逃れた。

土着の井伊一族は、その後も井伊谷で勢力を維持し続けた。分家支族との紐帯が堅く、領民の支持も篤かったのだろう。 130404_002大平城は灰ノ木川を南に見下ろす高地の入り組んだ尾根と谷を巧みに利用して築かれた山城である。谷を挟んで南と北の高台にそれぞれ複数の曲輪が配されている。北朝方の攻撃に最後まで耐えたのは、この城が守るに易く攻めるに難しかったからだろう。

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