人は何かに成ることを夢見る。何かに成れば、両親・恩師に報恩でき、郷党や親戚・知人にも鼻が高い。先ずもってめでたい。
だが成って安穏かというとそうでもないらしい。 成った結果,成った者同士の競い合う世界は前より一層過酷になる。周囲の期待もより高まり、それは重圧になる。最期には必ず「成れの果て」の時が来る。
成るも成らぬも「果て」には気をつけなければいけない。「果て」というものは茫漠として,何も見通せないのである。成って見定めることが出来てこそ,成る意味があると思うのだが・・・
議員に成って大臣に成って、これで事が成ったと呵呵大笑したら、瞬く間に辞任させられ、もう2度と成ることはない。
「為せば成る」で頑張って、「成って」も元の場所から一歩も進んでいなかったでは話にならない。それで早々に「果て」を体験するのは辛いものがあるだろう。
成るも成らぬも、人は一歩でも二歩でも、前へ進むことが大切だ。
南ア深南部の先達が教えてくれた登山家加藤文太郎の言葉「歩めば至る」。それは励ましになり、奮起の素になった。停滞していては、頂きに達しない。
何を、何処を、頂きと見立てるかは、人それぞれの価値観で決まる。
人は頂きに向かって歩まなくてはならない。早く着くか遅れて着くかは問題ではない。
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