当ブログのカテゴリ〈人文考察〉を続けていると、この国に特徴的な甘えと共依存の問題が目に付くようになる。トラブルや事件など、日常的に発生する様々な社会問題の根が、ここにあるように思う。わが国に独特のこの社会的病理は、私たち民族の心理的傾向と深く関わっているに違いなく、素人なりに気に懸かる問題である。
〈共依存codependence〉とは、心の奥底に強い依存心を持つ者同士の相互関係であると理解している。ふたりは、頼られることと、援けることに執着する。
その依存の根底には、互いの〈甘え〉がどっしりと居座っているように思う。自分に甘い人間は他人への甘え〈依存dependence〉に陥り易い。彼らや彼女らは、人に甘く人を甘やかす人間でもある。自他に甘い者同士が愛情や共感で結ばれると、共依存関係になり易い。
この言葉は、アルコール依存症者とその家族の観察を通じて、一般に知られるようになったらしい。
アルコール依存症者は、アルコールで泥酔し自制心を失うことで、自己の不満を解消しようとする。自制心を失うためにアルコールが必要で、酒が飲みたい訳ではない。彼は甘えの人で、自主的に飲酒を止められない。アルコール依存から自力で脱出することは難しい。
実は彼は妻や家族に甘えている。それは、家族の中に彼の介助を責務と心得ている者が居るからである。それは甘やかしなのだが、当事者双方はそのように受け取らない。甘やかしている人間の存在が、依存者のアルコール依存を助長していることに気がつかない。被依存者は依存者に頼られていることで、自己の存在感を無自覚に確かめている。これは被害を被っているその人自身が、加害者を必要とする状況である。つまり被依存者が依存者に依存するという変則的な関係になっている。これがアルコール依存における〈共依存〉である。
〈DV〉というものも〈共依存〉の関係が認められるようだ。自分を客観視できない幼稚な精神に対して、愛情に発したあらゆる努力があり、その全ては水泡に帰す。
DVに苦しむ妻は、夫を立ち直させるには自分が必要と考える。自分以外に夫を支え守る存在はいないと認識している。そうなると妙なことに、DV夫が自分に不可欠なものになる。依存者は敏感にそれを察知し、より依存性が高まり暴力は増す。これも「共依存」である。
甘えの強い人間は、責任を他に転嫁する人間である。したがって、DVの加害者が自発的に依存に因る問題を解決することはできない。
共依存は個人的関係の観察から始まったが、当然に社会的関係においても観察される。わが国の政治家と官僚の特異な関係も、社会的共依存関係の好例である。
議事の最中、幼稚園児の母のように、官僚が大臣席に駆け寄りペーパーを渡したり、耳打ちしたりする奇異な光景は、世界中のどこの国の議会でも見られないものだろう。明らかな甘えと甘やかしの異常な行為が、公の場の国会で展開され、テレビで放映されている。洵に見るに堪えない光景である。だが彼らは、それを恬として恥じない。議長はじめ他の与野党議員たちも、当然の習慣のように違和感を感じないで受け入れている。テレビを観ている視聴者も、それを不快に思わず容認している。
異常なことを異常に感じない共依存の社会的感性には、注意を要する。
日本人は甘えや共依存に寛容である。依存性を断ち切る潔癖さ、自主自立の精神が薄弱である。いかに日本が共依存社会であるかの証拠映像は、この8年間の国会中継の答弁場面には山ほどある。答弁原稿を書き、審議中に議長の許可もなく大臣席に駆け寄り大臣に耳打ちする官僚は、自分がいないと、この莫迦な大臣は答弁できないと感じているに違いない。強く頼られていると意識していることだろう。そうなると、彼は無能な大臣には自分が必要不可欠な存在と感じ、彼を盛り立てることに生き甲斐を感じるようにさえなる。
政治家が官僚に甘え、官僚は昇進のために政治家を甘やかす。甘やかしは甘えの裏面である。彼らに共依存関係を結ばせているものはただひとつ、双方の栄達である。
ずいぶん昔のことだが、知り合いに、毎朝妻に靴下をはかせてもらう30男が居た。それを当人はいっこうに恥じることなく周囲に得々と語っていた。軽い惚気のつもりであったかもしれない。おぞましく思う者は私を除いてほとんどいなかった。おそらくその習慣は、彼の妻が仕掛けたものだろう。共依存的な夫婦の特異な習慣である。
女性には、共依存によって男性の自分への愛を固定化しようとする傾向があるようだ。母性本能の倒錯による甘やかしであるように思う。親子間でも、このような共依存は観察される。マザコンは、まさに共依存の典型である。
共依存は、自我の弱い自己評価の低い人たちの間に発生しがちな関係であるばかりとは言えない。
人は依存されることで自己の存在を確かめる性質をもっていることも事実である。人は依存されることを欲している生物である。自律心と自尊心の高い人々と雖も、依存を求める面があることは否定できない。
「菊と刀」の著者ルースベネディクトは、戦争中に日本人と英米人の親たちの、我が子の甘えに対する扱いの極端な違いに注目した。西欧人にとっての甘えは、ただのspoil以外の何ものでもなく、如何なる階層においても幼いうちに剔抉すべきものと考えられている。彼らの幼犬への躾と幼児への躾は、何処か共通するものがあるように感じる。牧畜民族ならではのものかもしれない。
日本では、祖父母が父母に増して幼児を甘やかす。甘やかしの連鎖の元凶である。私も祖母に甘やかされて育った。「年寄りっ子は三文安」と言って、甘え社会のこの国でも、特に度し難い存在である。甘えの連鎖は、何処かで断ち切らねばならない。
日本の社会には、甘えに基づく共依存の心理が至るところで見受けられる。それが人々の自立を妨げ、幼稚性が個人と社会の成熟の障害になっている。このことは、常に忘れてはいけないと思う。
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