遠州灘は、西端の愛知県渥美半島伊良湖岬から東端の静岡県御前崎まで、直線距離にして110kmの単調な砂浜に面した海域だが、古くは船乗りに恐れられた危険な海だった。したがって、今日でもごく一部の海水浴場を除いて、遊泳禁止区間が連なる。
遠州の海は、底が急深で潮流が複雑な泳げない海だが、外洋に直面し波が高いので、サーファーには享けているようだ。
天竜川と大井川、2つの大河が大量の川水を海に押し出し、強い沿岸流が生じて常に河口沿岸(即ち全域)に三角波を発生させる。この沿岸流が運んだ砂が、100キロもの砂浜海岸をつくった。
夏は遠くマリアナあたりで発生する台風のうねりが高波を運ぶ。冬は北西の強風が連日吹き荒ぶ。避難できる港の数は少なく、航路からは遠い。木造帆船の船乗りたちには、永い間海の墓場と恐れられていた魔の海域である。
江戸時代の和船は、鎖国政策の幕府の禁令によって、凌波性能が低く外航に耐えられない非構造船だった。太平洋岸に面して連続する熊野灘・遠州灘・相模灘を寄港なしで航海するに充分な性能は具えていなかったようだ。
早い時代から航路が開け、北前船の通航する日本海側の西廻り航路に続き、江戸時代になって初めて津軽海峡を抜けて江戸に至る、東廻り航路が開かれた。
しかしその後も、上方から江戸へ直接荷を運ぶ菱垣廻船や樽廻船の航海は、決して安全なものとは言えなかった。紀伊國屋文左衛門のみかん船が、決死の航海だったことはご承知のとおりである。
熊野灘・遠州灘・相模灘を安全に横断する航海は、江戸中期になって、風待ち港や避難港などの寄港地が整備され、前記3つの灘の荒波を凌げる大型船(五百石船・千石船)が建造されるようなって初めて実現した。
江戸に向かう上方の廻船は、大阪湾から紀伊半島西岸沿いに航行し、串本・大島に入る。そして地形的に避難港の多い熊野灘を通過し、伊勢の安乗・鳥羽に寄港した。此処から風を読んで、遠州灘と駿河湾を突っ切り下田港に入る。天候急変の時は御前崎の相良港に避難した。下田からは一気に相模灘を横断し江戸湾に入る。
荒れる海遠州灘の海底は、天竜川と大井川が押し出す砂が堆積し、御前崎を除き岩礁の少ないない海底を形成しているため、生息する魚種は残念ながら豊かではない。
回遊魚のカツオを除く漁の対象魚は、シラス、キス、イシモチ、ヒラメ、カレイ、ボラ、スズキ、サワラ、タチ、コノシロ、アジ、イワシなど。辛うじて、御前崎の磯と浜名湖沖合の漁礁が、根魚を供給しているに過ぎない。磯魚の漁獲の少ない海域である。
故郷の海であっても、子どもの頃に其処で泳いだ経験がないのは、大きなハンディである。小学校の音楽授業で「♪わ〜れは海の子白波の〜♪」を歌うときは心が虚しかった。浜名湖内でしか遊んだことがないのは、子供心にも忸怩たるものがあった。初めて波のある越前三国海岸に行ったときは、怖くて海に入れなかった。老人になった今も、白波・大波には恐怖心を覚える。
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