てんちゃんのビックリ箱

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藤田嗣治展 in 京都 感想

2018-11-02 05:56:44 | 美術館・博物館 等

展覧会名 没後50年 藤田嗣治展
場所   京都国立近代美術館
期間   10月19日~12月16日
惹句   パリに愛された作家 フジタ 史上最大規模の回顧展
訪問日  10月17日
内容
 Ⅰ 原風景-家族と風景
 Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで
 Ⅲ 1920年代の自画像と肖像-「時代」をまとうひとの姿
 Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代
 Ⅴ 1930年代・旅する画家-北米・中南米・アジア
 Ⅵ-1 「歴史」に直面する-二度の「大戦」との遭遇
 Ⅵ-2 「歴史」に直面する-作戦記録画へ
 Ⅶ 戦後の20年-東京・ニューヨーク・パリ
 Ⅷ カトリックへの道行き

 この展覧会は色々と考えさせられる、なかなかパンチの効いた展覧会であった。
 内容に見られるように、藤田さんは日本の戦争、2つの大戦そして経済恐慌といった波乱の時代に生きて、いろんな国を巡りながら芸術家として厳しく向き合っている。周辺の人々の毀誉褒貶が極端な中、特に第2次世界大戦後は厳しい批判が集中する中で自分を貫いた。

 ほぼ内容に沿って、展覧会の内容について示していく。

Ⅰ~Ⅲ 国内からパリ留学、そして飛躍への準備
 フジタは、パリ帰りの黒田清輝から洋画の教育を受けたが評価が低く、下記左のの東京芸術大学で描いた自画像は悪い絵の見本とされた。その後きっと自信のない状態でフランスへ行ったが、そこでこれまで日本の画家が行っていたアカデミーではなく、モンパルナスの野心的な画家たちの集団にはいった。
 
 それからは日本のしがらみを断ち、後にエコール・ド・パリと呼ばれる仲間たちとの絵画能力、そして売込みの能力の切磋琢磨の過程での絵の変遷、ピカソ、モディリアニ、ルソーなどから影響を受けた絵がこの中で示されている。そして結果として、彼は東洋人としてのオリジナリティを浮世絵からヒントを得て、乳白色の肌の女性を描き出した。その時期が第一次世界大戦のちょうど終わった時期で、祝祭気分に重なり、大当たりをとった。その時描かれたのが上記右の自画像である。
 
 左の自画像は黒田から褒められなかったが、それは黒田が外光の輝きを好んで黒は嫌いだったから。でもフジタは反骨精神があったので、それを用いた。だがやっぱりある意味大したことはない。それに対し右は、乳白色ベースのキャンバスに自信溢れる顔、より一層得意そうな猫が描かれ、細い独特の黒い線や濃淡と合わせ、独自の世界を作っていることが理解できる。

 フジタは多くの自画像を描いているとのことだが、多分黒田に最初に自画像を叩かれたことが起因しているのだろうと思う。そしてその時々の自分の到達地点を記録するために、自画像を描いたのではないか。

  



Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代
 フジタは、最近まで謎とされていた方法で乳白色のキャンバスを作り、柔らかな凹凸を浮かび上がらせ、細い墨の線で輪郭を描いていく。このキャンバスの美しさとエキゾチックさ、これまでの西洋画壇にないエロティシズムで世界のフジタとなった。この時代の作品が15点並んでいる。ある意味、フェルメールの8点が並ぶのと同様な価値があるのかもしれない。

 それらの作品のうち、立っている例と横に寝ている例とを示す。立っている例は「舞踏会の前」という作品で、大原美術館の所有のもので修復が完了したばかりのものである。数人の女性が舞踏会前の着替えをしている場面で、特に中央の裸の魅力的な女性はフジタの彼女である。



この乳白色の作品は、その白がかなり不安定で修復前は光沢等が失われていたとのことだった。確かに他の乳白色のものとは違う。また困ったことに独特の光沢をしているので、複製品は実物とはかなり印象が違い、この絵の魅力を知るには実物を見てもらうしかない。またきっと修復といってもフジタが描いた頃の状態の再現は出来ていないだろうと思う。現在のこの絵でも素敵だと思うが、彼が初めてサロンに出した時の絵は、どんな状況だったか非常に興味がある。

 横に寝ている例はこの乳白色シリーズの初期のもの。黒の背景に白いシーツ、そして透明感のある白く輝く肌の女性を描いている。西洋の絵と違い静かで、でもとてもエロチックでびっくりしたことだろう。



 この15点は、彼特有の素晴らしい作品群である。

 この頃は描けば非常に高価にすぐ売れ、フランスのサロンの中心になった。それを日本からパリに行っている日本人画家そして国内の画家たちは僻んで、日本人としての嗜みがないと攻撃した。



Ⅴ 1930年代・旅する画家-北米・中南米・アジア
 絶頂期の後大恐慌が始まり、途端に絵が売れなくなった。そこで世界各地をまわり、そこで絵を描き売るという旅をおこなった。
 その中で、各地の風景や土着の美術の刺激を受けて色彩が豊かになってくる。
 一緒に連れて行った女性の肖像。とてもカラフルである。

 そして最後に収まった日本。ここでは風景画や、人々の姿 角力の例を示す。状況への適合を試みようとしているのだろう。

  




Ⅵ 戦争との関わり
 日本では最初なかなかおさまりが悪かったが、軍に近づくにつれ日本の画家たちも仲間に入れてくれるようになった。そして国際的な知名度から陸軍美術協会理事長にまで登りつめ、戦争と関わらざるを得なくなった。 

 好きな猫でも 争闘と題し下記のような絵を描いている。人間の戦いの絵を描く練習だったのか。




 そして戦争画。私はずっと以前真珠湾空襲の絵とインドネシアでの戦争の絵を見ている。単なる戦争の記録写真みたいな絵で、フジタが戦争画で非難される理由があまりピンと来なかったが、今回見た2点「アッツ島玉砕」、「サイパン島同胞臣節 全うす」にはびっくりした。




 まず、軍歌の「海行かば」を思った。この歌の詩は、私の知っているアメリカ人に言わせれば反戦歌である。そしてこの2点の絵も、きっと彼に言わせれば地獄絵であり、反戦の絵になるのではないか。でも日本では、鬼畜米英と戦う督戦の絵として、そして敗北の場合の捕虜にならず死を選ぶのが当たり前の絵として日本国内を回っている。特に前者の絵は賽銭入れが置かれ、フジタは横に立ちお金が入るごとに頭を下げていたとも書かれている。
 それがその頃の日本の風潮ならば、もし本土決戦となれば日本国民が消滅していたかもしれない。

 ともかく絵としてみた場合 彼にとっては自信作だったそうだが傑作の範疇に入ると思う。彼はルーブル等を見て、生死の境目を扱う戦争画を描きたいと思っていた。それが人間にとってギリギリの状況だから画家の技量が問われると思い、自分がそれを描くに値すると思っていたのだろう。
 そして、描いて2作品とも満足な出来だった。その絵が見る人を感激させるのをリアルに見て彼自身も芸術家として有頂天だったのではないか。

 基本的にはフジタは芸術家としての評価を得たいだけの人だったと思う。しかしルーブル等に納まっている戦争の名画は、戦争が収まってから描かれたものである。それて通常の従軍画家は記録写真の代わりとしての絵を描いている。 彼の場合はリアルタイムに芸術作品を描こうとしてしまい、成功してそして軍部に利用されてしまったということが問題なのだと思う。


Ⅶ 戦後の20年-東京・ニューヨーク・パリ
 終戦後は、軍部との関係から失意の時代となり、日本に落ち着くことが出来ずいろんな場所さ迷い、最後にフランス国籍を経て、パリに納まったが、その後ランスに定住した。
 彼は「日本から追い出された。」と思っていたようだが、日本の画家等の関係者は「戦争時にいい思いをした戦犯が謝らずに日本を捨てた。」と思っていて、その溝は埋まらなかった。
 その間に描かれたものとして、「私の夢」
 かつての乳白色のヌードを描いた頃を、思いおこしたのか。でも色がついているし、周りにたくさんの猫がいて、その頃には戻れない。



 そしてニューヨークで描いた「カフェにて」
 自分の特徴の乳白色の肌の使い方の展開を図っている。彼女は手紙を書こうとして考えている。彼自身が誰かに思いを伝えたいことを、彼女に託したのか。




Ⅷ カトリックへの道行き
 フジタはランスでカトリックの洗礼を受け、宗教画を描き出した。でも西洋人ではないので、異質の宗教画扱いだったようである。逆のそれを逆手に取り、マリアなどを黒人とするような宗教画を描いている。そしてそこに礼拝堂を建て、自分の絵で飾りそこに埋葬されている。

 彼と夫人を書き込んだ「礼拝」。





 彼はまた、妖精のような子供たちをたくさん描き、未来を託している。





 フジタは、日本人に稀有の自己プロデュースに長けた人であった。そして自己プロデュースの基盤として、乳白色のキャンバスを発明した。またロイドめがね、ちょび髭、猫などいろんな付属品も開発した。
 戦争画の彼流の描き方も、彼としての発明だったのだろう。また高齢になってからの宗教画や子供の絵も、そう大きくはないが彼としての発明であり、非常に新しさを追求していく努力の人だと思う。
 
 戦争画の評価は難しい。私は一生懸彼が人々の生死を考え描いた傑作と思うが、人によっては画家のテクニックで悲惨さを強調しただけの、あざとい作品とみなすかもしれない。
 歴史の中で定まっていくだろう。

コメント
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