てんちゃんのビックリ箱

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ミロ展 訪問 および感想

2022-07-03 08:53:36 | 美術館・博物館 等
ミロ展 日本を夢見て
場所:愛知県美術館
期間:2022.4/29~7/03
訪問日:2022.06.30
惹句:スペインの巨匠、日本にぞっこん

内容
第1章 日本好きのミロ
第2章 画家ミロの歩み
第3章 描くことと書くこと
第4章 日本を夢見て
第5章 二度の来日
第6章 ミロの中の日本
補章  ミロのアトリエから

 このうち、第1章の半分以上、第4章の半分、第5章、第6章、補章はほぼ資料展示。
 国内でみたことのある作品があるなと思ったら、絵画では10点程度を除き、日本の美術館から集めたもの。資料については、スペインのミロ財団から多くのものを集めていた。
 基本的にこの展覧会は、日本国内の美術館にあるミロの作品をまとめて展示するとともに、目玉の絵画をニューヨークから1点、スペインのミロ財団から数点と日本にかかわる資料を持ち込んで展示したもの。
 惹句の「スペインの巨匠、日本にぞっこん」という言葉の逆に「日本は、ミロにぞっこん」という言葉があるような気がした。
 
 この展覧会の目的は、ミロが美術をはじめ、そして進めていくにあたり、日本からの影響を大きく受けて、日本に憧れたということを、作品や蒐集物から明らかにしていこうという展覧会であり、そのコンセプトや展示品の集めかたも非常に理解できる。
 でもちょっぴり偏りすぎかとおもった。

 この展覧会で、撮影可能でかつSNS投稿のお墨付きがあったものが4点、そのうち1点は資料展示だったので、3点が作品。他から引用することもできるが、その3点で書くべきことは書けそうなので、その作品で記載する。

1.アンリク・クリストフル・リカルの肖像 1917年 (ニューヨーク近代美術館

 

右はちりめん絵の下に書かれたミロのサイン。


 ミロはスペインのカタルーニャで誕生、生涯は1893年4月20日 - 1983年12月25日。1912年にバルセロナの美術学校へはいり、1919年にパリへと出ている。シュールエレアリズムの影響を受けたのはパリ以降であるから、その前の彼の作品。その頃は1888年のバルセロナ万博もあり、スペインでもジャポニズム全盛だった。
 この作品に関して、背景にちりめん絵(ちりめんに浮世絵模様があるもの)がコラージュされていることを特に強調するが、私は顔が隈取の様で面白いと思った。また虹色にも見える色と黒の縞模様が、日本の役者絵の縞の着物を感じさせた。そしてサイン、落款のように書かれている。

 スペインはかなり昔に言ったことがあるが、パリからピレネー山脈を越えるといきなり黄土色の大地になった。私のスペインのイメージにぴったりの背景に、役者が見栄を貼るようなイメージでドスンと座っているのが印象的だった。ともかくこの迫力ある衣服の創作とそれに負けない顔を描き出したことはすごいと思う。そして迫力ありすぎる肖像を、しっかりと受け止めているちりめん絵も大したものである。



<見つめる人に照れる人>

 (写真が可能といっても、パンフレットやネット掲載のプロの写真にはかなわない。だから私は興味のある部分の拡大やリフレクション、鑑賞者も組み合わせたドラマを狙います。後者は肖像権の問題から顔が写らないようにします。)



2.絵画(カタツムリ、女、花、星) 1934年 ソフィア王妃芸術センター



 パリに出てきてもなかなか売れる状況にはならなかった。細密画を描いたり、ピカソに会いに行ったりしている内に、シュールレアリズムのリーダーであるアンドレ・ブルトンと出合い、その活動に参加するうちに彼からは絶賛されるようになった。それでも売れなかったが、なんとか売れ始め1934年にアメリカの画商と契約でき、ようやく安定した。
 彼はシュールレアリズムの作家と言われているが、ダリやルネマグリットとは全然違う、明るい線や面が踊りだすような特徴を持っている。それとともに、芸術は詩も絵画も繋がっていると考えていた。またその流れで、彫刻や陶芸にも取り組んだ。
 この作品は丁度その頃の作品で、立っている女性の間を、フランス語の「カタツムリ、女、花、星」という言葉の綴りが、ゆったりと流れている。背景は彼にしては暗いが、とてもロマンチックで、女性たちが言葉に反応して色を変えている。キャンバスから甘いフランス語が聞こえそうで、また聞こえると描かれた言葉の線がすっと伸びてきて、身体をからめとられそうに感じる。そしてこの人の特有の絵画の中の眼が光っている。



<言葉が流れている。 文字の線が女性をきったところで色が変わる。>

 




<その手は 引き留めているのか 追っ払っているのか>




3.ゴシック聖堂でオルガン演奏を聴いている踊り子【1943年)福岡市美術館



 ミロはスペインのフランコ政権とは対立していたが、ナチスのフランス攻撃から逃れるため、スペインのマジョルカ島へ家族とともに逃げて蟄居していた。この作品は黒い外が閉ざされた世界で、白い空間が教会の中。演奏者が聖歌の演奏をし、細い線描の踊り子3人が演奏を聴いている。その世界全体を上の可愛い眼の存在が見守っている。いろんな眼を描き分けているが、赤い眼となっているのは厳しい状況だからだろうか。
教会とオルガンを一筆書きのように描いているが、細い線との対比が迫力がある。赤、青、緑と強烈な色をばら撒いているがその配置が印象的だ。特に赤と緑の捕色の組み合わせをインパクトがあるように有効に使っていると思う。
 非常に厳しい状況を描いているのだが、細い線のやさしさに救われる。この絵は彼としての絵画と音楽の芸術結合だと思う。
 この絵が日本にあることはうれしい。

 

<演奏者と 踊り子の一人 拡大>



<外界から見る存在、天井灯のリフレクションがはいって、キャンバスから抜け出したかのよう>


 なお戦後はまた明るい色の絵を描きだしている。



4.その他
 日本との関連性を示すために、下記の展示を行っている。
 ・滝口修造が世界で最初にミロの本を書いたということで、俳句と版画のコラボなどを行っている。
 ・巻物
 ・ミロが蒐集した日本の民芸品が展示されている。
 ・日本で陶芸技術を習得した人の元で、ミロは陶芸に取り組み始めた。
 ・高齢になってからミロは2度日本を訪れた。(全世界的な回顧展、大阪万博での作品展示) その際是非日本を訪問したかったと述べたとともに、陶芸家や書道家のところを訪問した。それらの記録が展示されている。
 訪問して影響を受けた作品をスペイン帰国後残している。

5.感想
 展覧会があまりにも日本との結びつきを強調しているので、ミロ財団のホームぺージに行って確認してみた。( https://www.fmirobcn.org/en/joan-miro/ )
 そこの記述は以下のようなものだった。
 「ジョアンミロは1893年にバルセロナで生まれましたが、彼を人や芸術家として形作った感情的な風景は、主にモンロッチ(彼が美術を志すきっかけになった病気療養所の場所)、パリ、マヨルカ、そして後にニューヨークと日本のものでした。」 
 最後に取り上げられているだけである。多分最初のジャポニズムの影響はヨーロッパのその時代の画家にとっては標準的なことで意識されず、高齢になってからの陶芸や書道の影響が、彼を評価するヨーロッパ人にとって意識されているのだろう。ミロへ日本の影響ばかりがすごいということが世界の共通認識と思っていると、ずれが生じるかもしれない。
 それよりも残念なのは、ミロ財団のHPの言語は8か国もあるがその中に日本語が入っていないことだ。アジアでは中国語が入っている。日本の影響がおおきいと認識しているのなら、日本語を入れるように働きかけるべきだ。

 今回特に面白いと思ったのは、ミロの人柄。同じスペインの同世代に近いピカソはスキャンダルに彩られているし、シュールの仲間に近いダリは自己プロデュースの固まりのようで、ともに大芸術家とはこんな変人かもしれないと感じる人だった。
 でもミロは背広を切るととても落ち着いた普通の人で、新しいことを学び手を動かして理解してみるといった謙虚さがある。作品自体に魅力があったとしても、こういった静かな存在を世界の偉大な芸術家へとプロデュースした周辺にとても興味がある。



<ミロの肖像 Wikiより>
 

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