てんちゃんのビックリ箱

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稲沢市荻須記念美術館訪問

2022-03-22 09:31:14 | 美術館・博物館 等


訪問先:荻須記念美術館
訪問日:2022年3月5日
訪問対象:常設展 

 配偶者と気分転換に、文化的雰囲気のあるところへの適当な距離のドライブの条件で検討した結果、荻須記念美術館が選定された。
 有料道路を使って約1時間で到着。稲沢市の公園の中に、落ち着いた雰囲気の建物が立っていた。
 荻須画伯は稲沢市出身で、生涯は1901~1986年。東京美術学校卒業後パリに渡り、戦中帰国せざるを得なかったが、その後すぐにパリに戻りそのままパリで亡くなった。藤田嗣治とともにエコールドパリの画家とされており、フランスで「最もフランス的な日本人」として作品が評価され、肖像メダルが授与されている。
 
 ただし私の行くまでのイメージとしては、ほぼ同時期にパリに居住した佐伯祐三と似た壁の絵を書く人で、佐伯のパンチのきいたタッチに比べてやや地味な人という印象だった。

 美術館には、荻須氏自身が寄託した作品を中心に、美術学校以降の生涯の作品が展示されている。大きな1部屋と小さな2部屋に下記の構成で、展示がなされている。そしてパリ時代のアトリエが復元されている。
 1)美術学校時代
 2)パリ初期時代
 3)日本への帰国
 4)後期パリ時代
 5)イタリア、ヴェネツィア
 6)小品
 7)フランスからの肖像メダル、日本の勲章など

感想は以下の通り
1.パリ留学による変化
 日本にいる間は徹底的な写実派であったが、フランスに行くと佐伯を介してその頃のパリを席捲していた野獣派(写実ではなく心で感じる色彩を描く)およびユトリロの影響を受けた。そして佐伯と同様に建物の壁にこだわった絵を描き出した。



広告のある家ーパリの屋根の下 1931年


2.佐伯祐三との相違
 両者とも建物の壁を描いた。佐伯は野獣派の方向性と合致してその形や色に仮託して徹底的に自分の中のイメージを描いた。それに対して荻須は対象に、そこに住んでいる人間がそこの色や形、空気を作っていると感じ、雰囲気を描いた。そこで写実の基盤が生きている。
スケッチやリトグラフは写実に回帰しているようなものが多い。



<参考> 佐伯祐三の壁/ポスターにかかわる絵画

3.年齢による変化
 年齢があがると一層、写実的、色は中間色で落ち着いてくる。
 前述のそこに住んでいる人々の匂いを描いているということで、パリの人にとっては異邦人が自分たちを新しい視点、新しい手法で描いてくれているということに喜んだ。ユトリロがクールな色で描いた建物を、日本の土塀や灰釉の焼き物に近いざらっとした感じで描いた。これがもしかすると、フランスは農業国でパリ周辺も農家だから土臭い人も多く その琴線に触れたのではと思う。



オ・モカ・シャロンヌ 1976 





<参考> ユトリロの絵画の例



4.その他
 ヴェネツィアに写生旅行に行った絵画があったが、キラキラ輝く水面が印象的だった。配偶者は素敵といったが、私もなかなかいいと思った。
 パリの最初のアトリエが再現されていたが、とても整理されたきれいなパリらしい部屋だった。多分彼はほとんど外で写生し、仕上げをこのアトリエでやったのだろうが、ゆったりとした気持ちで丁寧にやったことだろう。
 戦争の時、パリで同様の立場だった藤田嗣治とともに日本へ帰ってきて、また同様にパリへ戻っている。絵だけでなく性格も正反対だが、この二人がどのように付き合っていたかとても興味がある。一時日本帰国した時は、藤田は軍部に取り入って洋画の大ボスになり、荻須に中国に出張しての絵画を頼んでいたようだ。戦後に荻須は恋焦がれて、藤田は追い出されるようにパリへとわたったが、どんな対話をしていただろう。

5.終わりに
 この美術館で荻須さんの絵画の変遷がわかるとともに、彼がパリで評価が高い意味が凡そわかったと思う。
 また、このような美術館を持つ稲沢市民は幸せだなと思った。特に荻須さんにかかわらず、この敷設図書室の美術書の充実は素晴らしい。若し私がこの近くに住んでいたら、品な時はこの図書室に通い詰めるだろうと思った。


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