てんちゃんのビックリ箱

~ 想いを沈め、それを掘り起こし、それを磨き、あらためて気づき驚く ブログってビックリ箱です ~ 

今はなき多武峰ユースホステルで出会った人々 (その1)

2019-03-09 01:19:21 | 昔話・思い出
 

 昔の大学の頃、ユースホステルをよく使った。
 当然ながら、目的は安いこと以上に女性とお近づきになることだったが、ある時期から、むしろそれを利用している若くない人に興味が移った。
 
 特にそれが顕著になったのは、明日香や室生等の、奈良の南の方に興味を持ち、多武峰ユースホステルを良く使うようになってからである。

 このホステルは今はもう存在しないが、かって談山神社の隣にあり、その頃は鬼言仏心おじさん(その人のために、仏の心から鬼の言葉で注意する)が名物ペアレントとして有名で、かつ周辺の観光地にこだわった常連客が多かった。
 
 そこに宿泊した時には、いつもちらほらと40歳位もしくはそれ以上の人を見かけた。
だいたいが本当にやさしそうで、子供っぽい笑顔を見せる人たちで、社会の荒波の中で大丈夫かなといった雰囲気も持った人もいた。

 私は、そういった人を見かけると食事の時なんかにすぐ近づき、話しかけた。こういった人が意外性を持っている。話はどんどん面白くなり、女の子達がよってくる。
 安全だもの?
 他のホステルではそれも目的だったが、ここでは別で本当に面白そうならば、その次の日、その人と行動を供にした。

 そんな感じでお付き合いした面白い人を(その1)で2名、(その2)で1名を紹介する。



1. 俯いて歩く人

 初夏の頃、石位寺へ白鳳時代の石仏とその近辺の古い陵を見に行くという2人連れに、ついていくこととした。
 そのうちの一人が表題の俯いて歩く人で、もう一人が次に紹介する詠う人である。

 その人は公立試験場の事務員で、その頃50歳を越えていたと思う。つばの広い帽子をかぶり、腰にシャベルなどが入った作業袋をつけている。
 土の道はもちろんのこと、舗装された道ならば端っこによって、じっと地面を見ながら歩いていく。そして時たま地面から何かを拾ってはじっと見つめる。

 どうしたんですかというと、昔の瓦のかけらが落ちていないかを探しているとのことであった。以前発掘のボランティアをやったとき、そっち方面に目覚め、また明日香には古い瓦のかけらが転がっていることも教わったとのこと。
 
 自分の職場には分析機器があるのでそれらを独習し、かけらを拾ってはどんな土で焼かれているのか何度ぐらいで焼かれているのかを分析しているそうだ。

 彼からはその前の晩に、飛鳥時代には本当に瓦は貴重で、御所ですらなかなか瓦は使われず、お寺でしか見ることはなかったと熱病にうなされるように語ってもらっていたが、これほどだったとは。

 石位寺の拝観後は、その近辺で1時間位探すからと、私達2人を陵へと送り出した。後で私達と合流した時には、数個かけらを持っていて、とろけるような顔で話し始めた。
 「これはね、焼いた温度が低そうだからきっと古いよ。」
 ズボンの膝がやや汚れ、元気な草の香りがした。




2、詠う人

 40歳位の国語の先生、ベレー帽をかぶっていた。
 石位寺から暫く歩き大伴皇女の墓にたどり着くと、その人の説明をし写真をパチパチと撮った後、柔らかな涼しい風が林を通る音にあわせて、眼を瞑り、万葉集の中の自然を称える歌を詠いだした。

 やや甲高いビブラートが効いた声が、風とともに広がってゆき、目の前の緑の林とあくまでも高い青空が、万葉の頃からずーと続いているような気がした。

 この人とは別の日に、甘橿の丘にも一緒に登った。このときも周りに関係なく相聞歌を詠い、周りにいた何人かの観光客を少なからず驚かせた(私はもう慣れていたが)。

 丘の上から飛鳥時代の人家の想定される配置を教えてもらい、電気のないまた人口密度の少ない自然の多すぎる状況で、夜の出会いをするのは、本当に覚悟が必要だったのだといった歌の説明を受けた。

 彼は、万葉集は読み人が向かい合っていた環境そのものを想起してこそ理解できるのではないかといって、彼等が見たはずの自然をスケッチブックの中に再現していた。
 
 彼が横で詠いだすと、飛鳥時代の空気が彼の口から流れ出してくるようだった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 僕だけのための君の歌(その... | トップ | 今はなき多武峰ユースホステ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

昔話・思い出」カテゴリの最新記事