てんちゃんのビックリ箱

~ 想いを沈め、それを掘り起こし、それを磨き、あらためて気づき驚く ブログってビックリ箱です ~ 

祖父の喜寿祝 (たくさんのいとこたち)

2017-09-27 03:53:19 | 昔話・思い出


 小学校高学年の夏、母方の祖父の喜寿祝に、住んでいた京都の日本海側から、母と北海道まで旅行した。
 敦賀から特急はくちょうに乗り、その後青函連絡船、そしてまた特急と乗り継いで約2日かかったとおもう。

 何せ田舎者の、始めての長距離旅行だったので、驚くことばかり。
 最初の驚きは、敦賀の特急停車時間0分、止まって扉が開き慌てて乗るとすぐ発車。その後もきれいな車両、特にトイレに感心したり、教科書に載っていた北陸トンネルの長さを実感したり、隣のおじさんに分けて貰った乾ホタテ貝柱が美味しくって、もっと欲しいとか言って、母にしかられたり………。
 いろんなことがあって、青森についた。駅弁の楽しさ、冷凍みかんのおいしさもこの時知った。

 青森はちょうど小さな台風が通り過ぎ、また台風が近づいてくるという状況であった。暗い空、白い波頭が目立つ暗い海に、時たま突風が吹いていた。既に半日連絡船が止まっており、かなり大勢の人が出港を待っていた。
 母は洞爺丸の海難のことを話し出し、心配しながらも、心は本当に久しぶりの北海道に飛んでいるようだった。

 暫くして船が出ることになった。ともかく2等船室のいい場所に陣取ろうと母が急いだけれども、非常に大勢乗ったので、僕達が横になって寝るには狭かった。
 だけど、子供としては先ずは探検である。2等船室のいろんなところ、売店、デッキと歩き回った。

 そして「イルカがいるよ。」と言う声に、まわりの子供達とともにデッキに殺到した。そして船の灯りだけに照らされている夜の海で、船と並んで時たま白い水しぶきをあげる黒い物体を、飽きずにずっと眺めた。
 大きなジャンプをして遠ざかっていかなかったら、そこで冷え切ってしまったのかもしれない。

 船室で寝転んだが、全然寝付けない。ともかくは横になりなさいと母がいうので、ずっと寝転んでいたら、船の音が変わった。
「もうすぐ函館よ」 母が言ったので、すぐデッキにあがった。

 その時の朝焼けは、すごかった。いろんな色に染まった妖しい雲の中に、これまた半分黒で、半分が赤と黄色の函館山がドスンと存在していた。 
 その朝焼けの色……、ほんの暫く前まではこんな色でって言えたのに……。今もうかなりモノトーンになってしまった。

 ただすごかったというイメージだけを残して。
 

 札幌の祖父の家で一泊した後、喜寿の祝いを行なう定山渓温泉に出発した。

 曽祖父は、明治の最初期の入植者である。北海道の冬、何もやる事がなかったのか、労働力の自己調達かは知らないが、10人の子供をなした。その中の一人である祖父は、確か一番目の妻から8人、二番目の妻から6人の子供を得た。その中に私の母がおり、当然ながらその次の子供世代である、私のいとこはたくさん…。
 
 その結果として親族は非常に多く、温泉旅館を1日貸しきって御祝は行なわれた。大体50名以上は集まっていたと思う。
 到着した後は、特に僕達の部屋は大賑わい。何せ内地の最も西に住んでいる母が来たので、入れ替わり立ち代り、母の兄弟達がやってくる。
 道産子の明るさにはびっくりしたが、母もそのようにガラっと変わって、話を弾ませているのには驚いた。いつもは裏日本の暗い人間関係に、適合しているのに。
 僕も歳が同じくらいのいとこと、はしゃぎながら旅館の中を歩き回った。

 その後のお風呂も、ちょっとした思い出。
 入口は男女別々だったけれども入ると、混浴ってやつだった。丸い大きなお風呂に、どんどん人が集まってくる。
 先ほどのいとこも入ってきた。少し胸が膨らんできていた。最初は恥ずかしそうな素振りだったが、大勢の人が入って、裸が当たり前の世界になると、何事もないかのように振舞いだした。

 もう小学校では男女の身体検査は別々だったので、女性って、こんな感じで胸が大きくなっていくんだとか、歩く時あんな感じで身体が動いているんだとか思った。


 そして喜寿の宴会。
 大広間に、おじいさんを上座に周りを年取った兄弟、そして子供の各家族が座った。
 家族ごとの挨拶の後、宴会が始まった。大人たちはどんどん上座に集まり、子供達は下座の方に集まって、最初から友達だったかのように、遊びだした。血のつながりがあるという仲間意識を、この時強く感じた。
 
 全部は揃っていなかったが、母方のいとこが25人いるのだと知り、会った時はいつでもこの人たちとは遊べるんだと、嬉しかった。
 それとともに、ずっと上座の方で話の中心になってニコニコしているおじいさんを見ながら、僕も歳をとって、あんな風になれたらいいなと思った。

 夜、それぞれの家族の部屋に分かれた。それでも寝付けなくって廊下に出ると、やっぱりどっかの子供がいて、結局走り回った。 最初は大人も止めていたが、いつしか大人同士起きてきてしゃべりだした。
 子供が疲れて寝た後も、きっと大人達は話しつづけていたのだろう。
 次の日の朝の札幌への定期バスは、やはり一族の貸しきり状態で、多分皆、席につくや否や終点まで寝ちゃったんじゃないかな。


 それから、岩見沢近くで農場を経営している親戚を訪ねた。
 そこは駅から一本道で、遠くに見えているにも関わらず、歩けど歩けどたどり着けなかった。ほんと石狩平野の広さを思い知った。

 また、スイカを二つ割にしてスプーンで食べるとか、トウモロコシの茹でたのがバケツ一杯出てくるとか、豪快さに驚いた。そして極め付きが牛乳風呂。
 自家製チーズを食べて、初めてチーズの美味しさがわかったことも懐かしい。


 家へ帰る列車の中、元気になった母を感じた。そして北海道から母が何故、癇癪持ちの父と結婚して僕達の住むところに来たのか不思議に思うとともに、兄嫁にいじめられても崩れない、母の強さの基盤を感じた。 


 私には、この母方25人、それに加えて父方5人のいとこがいる。ほとんど会うことはないけれども、問答無用で繋がり合う人たちがいろんなところに生きているという、私の支えとなっている。
 
 実際、私が高校から下宿し、会社に入ってからも大きくポジションや専門を変え、付き合う人が大幅に変わる中でも、毎年の年賀状の呼びかけあいだけで安心できた。
 今でも冠婚葬祭で会うとき、「ちゃん」付けで呼び合っているのが10人以上もいる。
 しかし、私の子供のいとこは、7人しかいない。そして一人っ子だから、もし結婚相手が一人っ子ならば、彼らの子には、いとこは一人もいない。

 私の場合には極端に多かったのかもしれないけれども、少子化になると、こういった血縁の支え、即ち学校や社会でうまく行かなくても、別のところで確実に付き合ってくれそうな存在が失われていく。
 これも、今の子供達が少しいじめられただけで、折れてしまう要因ではないだろうか。


 ところで北海道へは、母は他の兄弟も連れて行った。それが兄弟3人のうち誰だったのか、今思い出すことが出来ない。
自分一人の目の前に現われた楽しいこと、そしてその頃の最も愛して欲しい対象であった母のことは、いろいろ思い出せるのに。

 記憶というものが、こんなにも自己中心的であることが悲しい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする