「百人斬り競争」裁判はこの事件の「ヤラセ」の基本構造を見えなくした(1)
最近気づいたのですが、「百人斬り競争」は「非戦闘員殺害」だったと思い込んでいる人が意外と多いようですね。また、こういう人たちは、論争によってそれが事実でないことが分かっても、その話(=自白)をしたのは両少尉であり、記者はそれを記事にしただけ。従って、それが「非戦闘員殺害」の証拠となり処刑されても、それは、自業自得、と考えるようです。
おそらく、これは「百人斬り競争裁判」の結果がもたらした印象なのではないでしょうか。私自身のこの裁判についての感想は、裁判所が相変わらず「雲の下論」(*本稿3で説明します)的な事実認定をしていることの驚き。もう一つは、この裁判では、この事件の事実関係について、それまでの論争で積み上げられた論証が、ほとんど生かされなかったということです。
というのは、それまでの「百人斬り競争」論争における議論の焦点は、記者が両少尉から「百人斬り競争」の話を聞いたことは明らかだが、では、記者はその話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか、ということでした。そして、この点については、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、山本七平らの研究によって、記者が両少尉の戦場心理を利用して武勇伝の”ヤラセ”をさせ、それを取材したように見せかけて戦意高揚記事を書いた、ということでほぼ決着していました。
この論争で本多勝一記者は、論争の開始当初、氏が中国で聞いてきた「殺人ゲーム」が事実であることの証拠として、この新聞記事を掲げていました。従って、論争の結果、この新聞記事が上述したような”ヤラセ”記事であったことが判明した段階で、その新聞記事を「元ネタ」にした「殺人ゲーム」は、いわゆる「虚報が生み出した悲劇」とすべきでした。
ところが、本多記者及びこれを支援する朝日新聞は、その後の論評でも、また「百人斬り競争」裁判でも、いわゆる志々目証言の他、中帰連メンバーであった鵜野晋太郎の捕虜殺害体験談、それに新たに発見された望月五三郎の私家本『私の支那事変』の記述などを証拠として、「百人斬り競争」は「捕虜(据えもの)百人斬り競争」であったと主張しました。
そもそも、小学生の頃に野田少尉の話を聞いたという伝聞証言や、両少尉とは無関係な残虐兵士の証言、それに「据えもの百人斬り競争」説登場後に書かれた私家本の記述などが、人権尊重第一、「疑わしきは罰せず」を基本原則とすべき今日の裁判において、証拠になるのでしょうか。
この裁判における最終判決は次のようなものです。
「南京攻略戦闘時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、1本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある『百人斬り競争』の実態及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の『百人斬り』の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である。
しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」
前段は、新聞記事に記された戦闘行為としての「百人斬り競争」について、「その内容を真実ことができず」「はなはだ疑わしいと考えるのが合理的」というのですから、それでよろしいと思います。しかし、後段の、両少尉が「『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体は否定できない」というのは、一体どういうことでしょうか。
これは、この「百人斬り競争」の新聞記事中で、両少尉が「百人斬り競争」を肯定する会話をしている、ということでしょう。つまり、「この記事の全てが記者の創作」とは言えない、といっているのです。実は、ここに、原告側の”新聞記事は全て記者の創作”とする「事実の摘示」の誤りがありました。事実は、先に述べた通り、これは「ヤラセ」記事だったのですから。
つまり、記者は、両少尉に武勇伝としての「百人斬り競争」の「ヤラセ」をさせ、その会話を巧みに記事に織り込んで戦意高揚記事を書いたのです。ところが、原告側が、この記事の全てを記者の創作とし、両少尉は常州以外では記者と会っていないとしたため、次のような問題が起こりました。
第一に、両少尉のいう無錫郊外での記者との三者談合(そこで”ヤラセ”談合が成立した)の存在が不明確になったこと。次に、第四報の舞台となった紫金山に、両少尉が行っていないことを証明しなければならなくなったことです。(もっとも、これは記事中の紫金山の戦闘地域には行かなかったという意味かも知れませんが・・・)
そして、こうした両少尉のアリバイ主張が、それぞれの属した部隊の作戦地域の検証でくずれた結果、記事中の両少尉の会話の「ヤラセ」部分と、記者による創作部分の腑分けができなくなったのです。そのため、全体的な印象として、両少尉が「百人斬り競争」を「自白したのは事実」→自業自得との印象を持たれることになったのです。
また、それと同時に、そうした両少尉の会話以外の部分の記述についても、同様に、それが両少尉の話をもとにしたものか、それとも、記者が記事に整合性をもたせるために創作したものか、その判別ができなくなってしまったのです。そのため、記者の”両少尉から聞いたままを記事にした”という言葉への反証が困難になりました。
先に紹介した裁判所の最終判断は、こうした議論の流れを受けたものと思われますが、では、原告側はなぜ、このような、それまでの研究成果を無視した「事実の摘示」を行ったのでしょうか。あるいは、記事中に両少尉の「自白」部分を認めることは、裁判では不利との判断があったのでしょうか。
また、こうした主張は、両少尉が南京裁判の過程でもしていましたから、その証言の信用性を維持しようとしたのかもしれません。といっても、両少尉の場合は、その主張の根幹が、新聞記事は記者が構想したものであり、従って、「ヤラセ」でしゃべらされた自分たちの会話も、記者の「創作」とする意識が働いたものと思われます。
そこで、次に、この新聞記事の内、どの部分が両少尉が「ヤラセ」でしゃべらされたものか、あるいは記者の創作によるものかを、それまでの鈴木明や山本七平が行った論証に見てみたいと思います。
「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと
1月30日の産経新聞に、30日富山で行われた日教組の教育研究全国集会において、日中戦争の南京戦で報道された日本軍の“百人斬(き)り”を事実と断定して中学生に教える教育実践が報告された、との記事が掲載され、ネットでも話題になっています。この事件が冤罪であることはほぼ確実ですので、事実とすれば、何と不勉強なことかと思い、事実を確認してみました。
次は、その部分の記述内容です。
「これは、中国で撮られた写真と新聞記事です。何の写真でしょうか」字が小さいので、こちらで見出しだけ読んであげた。
「百人斬り超記録」「向井1 0 6-1 0 5野田」「両少尉さらに延長戦」‥‥
それでも、生徒たちはピンと来ない様子。「『百人斬り』って、誰を斬ったの?」「そう、中国人をね。日本は中国に攻め入って。たくさんの中国人を殺しました。考えてみてください。普通の世の中であれば、一番してはいけないことは何ですか?」急な質問に生徒たちはとまどっている。質問を変える。「では、一番重い罪になるのは何ですか?」「人を殺すこと」「そうだね、人を殺すこと。だけどどうだろう。戦争になったらこのように、人を殺すことは良いことだということになってしまう。相手国の人をたくさん殺せば殺すほど、勲章がもらえてたたえられるんです。この記事が新聞に載ったということは、この記事を見た日本め人たちはすごいと賞賛したんでしょうね。だから記事になってるんです。
戦争になれば、価値は大逆転するんです。人を殺すことが手柄になってしまう。もうそうなったら、何でもありです。相手国の人の物を盗む?家を燃やす?女性に乱暴する?‥・.すべてが許されることになうてしまいます。だから、殺されたのは兵士だけではなく、一般のお年寄りや女性、子どもたちもです」
レポートの「百人斬り競争」に関する記述はこの11行だけです。これを読む限り、この授業の焦点は、「百人斬り競争」の事実云々というより、むしろ、これを兵士の手柄として報道した新聞、それを日本人が”すごい”と称讃した事実に重点が置かれているように思います。つまり、ふだんは人殺しは一番重い罪なのに、戦争になるとこんな風に価値観が逆転するのだ、ということを教えているのです。
これに対して、今回の産経新聞の報道では、この教師が「”百人斬り競争”を事実として教えたこと」を問題にしています。拓殖大学藤岡正勝教授も「事実でない中国のプロパガンダを教えるという意味で問題。わが国の歴史に対する愛情を深めさせることを求めた学習指導要領にも反しており、極めて不適切だ」と言っています。
しかし、この教師は、授業の始めに、この新聞記事を生徒に見せ、それを日本が中国に攻め入ってたくさんの中国人を殺した、という話につなげているだけで、この事件の事実関係についての説明は一切していません。だが、こうした印象操作による問いかけを受けた生徒達は、当然これを事実と思い込むわけで、これは、生徒たちの感想文「多くの人を理由もなく殺し・・・」という言葉に現れています。
だが、もしこの生徒達が、この先生の印象操作によって、「多くの人を理由もなく殺した」その典型例と思い込んだ「百人斬り競争」が、実は、この新聞で報道された内容とは似ても似つかぬものであったことを知れば、この素直な生徒達は、一体どのような感想を持つでしょうか。あるいは、残虐非道な日本軍人というイメージから、”なんてひどいマスコミ!”に転化するかも知れません。また、この二少尉が意外にも立派な日本人であったことに誇りを感じるかも知れません。
本稿は、以下私の述べることが絶対正しいと主張するものではありません。しかし、今日までに出てきた資料を分析する限り、この「百人斬り競争」は、この教師が印象操作したような、日本軍人の残虐行為を示す典型例では決してなかった。従って、この事件から生徒達が学びうることは、マスコミによって事実は如何様にでも変えられるということ。「虚報」はどのようにしたら見抜けるか。あるいは、この二少尉の残した遺書から、何を学ぶことができるか、等々だろうと思います。
この「百人斬り競争」事件は、こうした、今日の日本人にとっても大きな課題となっている事実認識や価値判断の問題、また、自分自身の生き方を考える上でも、極めて示唆に富む内容を含んでいると思います。それだけに、今回の日教組教研集会における「百人斬り競争」を題材にした平和教育は、この事件の真相は一切問わないままに、一方的に、二少尉を「多くの人を理由もなく殺した」残虐な日本軍人の典型としただけでなく、上記のような「知恵」を学ぶ機会を生徒達から奪っているように、私には思われました。
そこで、以下、この事件の真相について、私が理解している範囲で、できるだけ分かりやすく説明し、皆さんの参考に供したいと思います。
まず、この「百人斬り競争」事件の核心は、この事件が事実であったか否か、ということにあるのではなくて、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約される、ということを述べておきたいと思います。
言うまでもなく、南京軍事法廷において、二少尉が有罪とされたその唯一の証拠は、この記者が書いた「百人斬り競争」の記事だけでした。このことは、両少尉がこの軍事法廷において死刑判決(昭和22年12月18日)を受けた後、この法廷に提出した「復審を懇請」するための上訴申弁書(12月26日)に明らかです。
次にそれを示しますが、注目すべきは、この申弁書を書いた(12月20日)のは、向井、野田両少尉の弁護人を務めた中国人弁護士崔培均(官選弁護人)で、それを「陳某」(名不詳)が日本語に翻訳して向井敏明、野田毅両名に届け(12月22日)、両者連名で法廷長石美瑜に再審を懇請し、合わせて蒋介石への転呈(取り次ぎを願うこと)を願ったものだと言うことです。
この中国人弁護士崔培均は、「民衆で満員三階迄一杯」(ただしこの裁判に関しては「始めより終わり迄、民衆は声無く聞く」と向井少尉の「獄中日記」にある)の法廷において、彼等の弁護を務めたわけですが、この「上訴申弁書」では次のような申し立てがなされ、二少尉の無罪が主張されています。*野田はその遺書の中で「中国にもこの人あり、このような弁護士もおられるかと思ふと、日本と中国は真心から手を握らなければならないと思いました」と書いています。
なお、この申弁書は、向井、野田両名と共に南京の収容所に収監されていた戦友が、釈放後、ザラ紙一杯に細かく書き込まれた向井、野田両名の遺書と同時に、二人が最後に「上訴申弁書」として出した紙切れ二枚(「上訴申弁書」原文は漢文で、これはそれを和訳したもの)を、靴底に隠して日本に持ち帰り、遺族の許に届けたものでした。以下の文は、鈴木明が読みやすくするためこれをさらに現代語訳(( )内は鈴木の解説)したものです。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』p310)
[野田毅、向井敏明]上訴申弁書
民国三十六年十二月二十日
具呈人 向井 敏明 野田 毅
国防部審判戦犯軍事法庭
庭 長 石
国防部長 白 転呈
主 席 蒋
「被告向井敏明と野田毅は、民国三十六年十二月十八日に、国防部審判軍事法廷で、死刑を即決されました。しかし、この判決に不服がございますので、左の通り上訴申弁書を提出致しますので、再審をお願い申し上げます。
一、この判決は、被告たちの「百人斬り戦争」は、当時南京に住んでいたテインパーレー(原著名は田伯烈・そして、既にご存知のように、ティンパーリーは南京にはいなかった)の著『日本軍暴行記実』に鮮明に記載してあるので、これが間違いのない証拠である、と書かれておりますが、『日本軍暴行記実』に記載されている「百人斬り競争」に関する部分は、日本の新聞を根拠にしたものであります。この本は、この法廷にもありますので、改めて参照することは簡単であります。
ところが、原判決で”鮮明に記載してある”というのは、どのような根拠によるものでしょうか、判断が出来ません(「向井、野田両名を指してこの男が犯人だ」という証人が現れなかったことを示唆している)。その上、新聞記事を証拠とは出来ない、ということは、既に民国十八年上字第三九二号の貴最高法院の判例で明らかになっております。新聞記事は、事実の参考になるだけであって、それを唯一の証拠として、罪状を科することは出来ません。
なお、犯罪事実というものは、必ず証拠によって認定しなければならない、ということは、刑事訴訟法第二六八条に明らかに規定されております(後に調べたが、「中華民国刑事訴訟法第二六八条の中国語原文は、下記の通りである。「犯罪事實應依證據認之」)この、いわゆる”証拠”とは、積極証拠を指しているものであることもまた、既に司法院で解釈されていることであります。
ところが、貴法廷には、被告人が殺人競争を行ったことを証明する、直接、間接の証拠は全く提出されませんでした。単に、被告の部隊名や、兵団の部隊長であった谷寿夫の罪名が認定されたからといって、被告等に南京大虐殺に関して罪がある、と推定判断することは、全く不可能であります。
二、原判決では「東京日日新聞」と『日本軍暴行記実』には同じことが書かれてある、と認定しています。しかし。この本の発行期日は、「東京日日新聞」に記事が記載された後であり、ティンパーレーの方が、新聞記事を転載したことは明らかであります。さらに、新聞記者(東京日日新聞)浅海一男から、中華民国三十六年十二月十日に送付された証明書の第一項には、「この(百人斬りの)記事は、記者が実際に現場を目撃したものではない」と明言しております。即ち、この記事は被告等が無錫で記者と雑談を交したとき、食後の冗談でいったもので、全く事実を述べたものではありません。東京で、浅海一男及び被告の向井に対する『盟軍』(アメリカ軍のこと)の調査でも、この記事は不問に付されたものであります。
被告等が所属した隊は、民国二十六年二九三七年)十二月十二日、麒麟門(南京城の門名ではなく、南京城門外、東部にある地名を指す)東部で行動を止め、南京には入城しなかったことは、富山大隊長の証明書で明らかであります。これは、被告野田が、紫金山付近では行動していないことを証明するものでもあります。
また被告向井は、十二月二日、丹陽郊外で負傷し、その後の作戦には参加していませんでした。従ってこれも紫金山付近で行動していないことは、また富山大隊長の証言でも明らかになっています。
さらに申し上げれば、この新聞記事の中の”百人斬り”なるものは、戦闘行為を形容したものでありまして、住民、捕虜などに対する行為を指しているものではありません。残虐行為の記事は当時の日本軍検閲当局を通過することは出来ませんでした。このような次第ですから、貴法廷が”この記事は日本軍の検閲を経ているから、被告たちの行為は間違いない”と認定しているのは、妥当ではありません。以上のように、新聞記事は全く事実ではありません。
ただ、被告等と記者との食後の冗談に過ぎないのに、貴法廷の判決書には、多数の白骨が埋葬地点から堀り出されたことが証拠である、と書かれています。しかし被告たちが行ったことのない場所で、たとえ幾千の白骨が現出したとしても、これを被告等の行為であると断定する証拠にはなりません。
もし、貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その自白が事実と符合しないのですから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできません。
三、被告等は、全く関知しない南京大虐殺の共犯と認定されたことを、最も遺憾とし最も不名誉としています。
被告等は、断じて俘虜、住民を殺害したことはなく、また、断じて南京大虐殺に関係ないことを、全世界に向って公言しております。被告等が無罪であることは、当時の上官、同僚、部下、記者などがよく知っているだけではなく、被告等は今後、貴国及び日本国は、恩讐を越えて、真心から手を握り、世界平和の大道を邁進することを心から念じております。
以上申し上げた通り、原判決は被告等にとってふさわしくないので、何とぞ、公平なる再審を賜ることを、伏してお願いするものであります」
だが、こうした中国人弁護士崔培均等の努力も向井、野田両少尉の訴えも空しく、両少尉は、昭和23年1月28日、南京郊外の雨花台で処刑(銃殺)されました。
ではなぜ、これだけの反証がなされたにもかかわらず、二少尉の死刑判決は覆らなかったのでしょうか。そこでまず、私が前回、この事件の核心として述べたこと、この記事を書いた記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」について検討したいと思います。言うまでもなく、この「百人斬り競争」の記事は事実ではありません。それは、この南京法廷自体がこれを戦闘行為だとは認めていないことで明らかです。
つまり、近代戦においては、「百人斬り競争」のようなことはありえず、だから、中国人は、これを住民・俘虜虐殺事件と見たのです。本多勝一氏等は、こうした主張を「百人斬り競争」論争が不利に陥った後になすようになりましたが、こうした見方は、中国側が南京裁判以前より主張していたのです。
しかし、これは、前回紹介した「上訴申弁書」によって完全に反証されました。というのは、裁判所が「百人斬り競争」を住民・捕虜の虐殺と認定したその唯一の証拠は、浅海記者が書いた東京日日新聞の記事以外にはなかったからです。だから、もし、これが浅海記者の創作つまりフィクションであった事が証明されれば、住民・捕虜虐殺の証拠と見なされたその元になる事実がなくなるのですから、これを住民・捕虜虐殺事件にすり替えることも出来なくなります。故に、浅海記者が、自分の書いた記事について「二少尉の話を事実と思って書いたか否か」が問題になるのです。
だが、この事を知っているのは、浅海記者、向井少尉、野田少尉の三名しかいない。そして、向井少尉と野田少尉は、裁判の中でこれを「無錫において記者と会見した際の食後の冗談であって全然事実ではない」と全面否認している。そこで浅海記者は何と言ったか。彼は、向井少尉の弟に懇請されて南京法廷宛ての証明書に次のように書きました。(本来なら軍事法廷は、彼を召喚して証人尋問すべきだったのですが・・・。)
一、同記事に記載されてある事実は右の両氏より聞き取って記事にしたので、その現場を目撃したことはありません。
二、両氏の行為は決して住民・捕虜等に対する残虐行為ではありません。当時といえども残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることは出来ませんでした。
三、四は省略
もし、この記事作成の事情が二少尉の主張する通りのものであったら、この浅海記者の証明書は、「両氏より聞き取って記事にした」ではなく、戦意高揚記事を書くため、両少尉に架空の武勇伝を語ってもらい、いわゆる”ヤラセ”をやり(山本七平は、無錫で三者談合、常州では両者を佐藤振寿記者の前及び紫金山周辺の安全地帯で鈴木記者の前で”演技”させたと見ている)、それを佐藤記者や鈴木記者の前で自分が実際に取材しているように見せかけて、「百人斬り競争」の記事を書いた」となります。
しかし、浅海記者は、向井猛氏(向井少尉の弟)の願いにもかかわらず、この証明書には、「両氏より聞き取って記事にした、ただし現場を見ていない」としか書きませんでした。ということは、浅海記者は、裁判所が彼の書いた記事を住民・捕虜虐殺があったことの唯一の証拠としているのに、「私はその記事を事実と思って書いたが、直接見ていないので、それが住民・捕虜等に対する残虐行為であるはずはないと思うが、実際に何があったかは知らない」と言ったことになります。
では、本当に浅海記者は、一切の「主観的操作」を加えないで、この記事を作成したのでしょうか。このことを検証したのが山本七平の『私の中の日本軍』で、その結果、この「百人斬り競争」の記事は、先に述べた通り、浅海記者による”ヤラセ”事件であったことが明らかになったのです。
これが事実であれば、三階まで中国人でぎっしり詰まった南京法廷において、戦犯容疑の日本兵の弁護人を務め、前回紹介したような「上訴申弁書」を作成して、その全面無罪を主張したのが中国人弁護士であったのに対して、この日本人新聞記者は、自分の記者生命を守るため、戦意高揚記事作成のために自分に協力してくれた二少尉を見殺しにしたことになります。
では、なぜそう言えるか。もちろん、こうした解釈はこの記者にとって大変不名誉なことですから、その後の論争でも本人はこれを否定しています。また、この「百人斬り競争」については、今日まで様々な観点からの論評・論争がなされています。しかし、私は、この事件の核心は、先に述べた通り、浅海記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」というこの一点に集約できると考えています。
以下、こうした観点に沿って、山本七平が浅海版「百人斬り競争」をフィクションと断定した思考経路をたどってみたいと思います。
○ ベンダサンvs本多論争で、ベンダサンが本多勝一氏の書いた「中国の旅 競う二人の少尉」をフィクションだと断定したのに対し、本多氏は、東京日日新聞の浅海記者が昭和12年末に書いた「百人斬り競争」の新聞記事を証拠として提示した。これに対して、ベンダサンは、この浅海記者の書いた記事も直ちにフィクションだと断定した。しかし、山本は、なぜベンダサンがこれをフィクションと断定できたのか分からず、事務所に来た『諸君』の記者に、「氏はやけに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言った。
○ その後、鈴木明が『南京大虐殺のまぼろし』を書き、向井少尉の未亡人から送られてきた向井少尉の遺書と南京裁判における向井敏明付き弁護人の「上申書」によって、この浅海版「百人斬り競争」が作成された経緯を明らかにした。それによると、浅海記者は、向井少尉と野田少尉に「行軍ばかりで・・・特派員の面目がない」といい、向井少尉が「花嫁を世話してくれないか」と冗談を言ったところ、「貴方があっぱれ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」と言った。これに両少尉が応じたことからこの記事が作成されたという。
○ この記事の発表後、向井、野田両少尉は、記者の創作した「百人斬り競争」という虚報記事によって、南京大虐殺の象徴的な犯人とされ処刑された、との見方が一般化した。しかし、山本は、これは、両少尉が記者に「百人斬り競争」の武勇伝を話し、記者がそれを事実と思って記事にしたのか、それとも記者はこれをフィクションと知りつつ記事にしたのか判らない。結局これは水掛け論に終わらざるを得ないと思った。そこで山本は、その時書いた文藝春秋の記事に”これはもう良心の問題だ”と書いた。
○ ところが、その後の鈴木明の調査で、この両少尉は、最前線で戦闘する歩兵小隊長ではなく、向井少尉は歩兵砲小隊長、野田少尉は大隊副官だった事が明らかになった。山本は、浅海記者が書いた「百人斬り競争」の第一報における野田の会話に「僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」とあるのを、歩兵には何か○官という職務でもあるのか、と思っていたが、まさか、これが副官の「副」を伏字にしたものだとは気づかなかった。
○ そこではじめて、この記事は、職務も指揮系統も全く異なる歩兵砲小隊長と大隊副官を、あたかも同一指揮下にある歩兵小隊長であるかのように見せかけた記事であることが分かった。つまり、前者は砲兵、後者は副官つまり部隊長付の事務官であって、前線に出て戦闘する職務ではない。そこでこの記者は、これが読者に分かると「武勇伝」としての「百人斬り競争」が成り立たなくなるので、野田少尉の「僕は副官をやっている・・」という会話の副官を○官としたのではないかと、山本は思った。となると話は違ってくる。なにしろ山本は軍隊では砲兵であり、また実質的に副官の職務を経験していたからである。
○ そこで、この「百人斬り競争」の記事をよく見ると、同一指揮系統に属する二人の歩兵小隊長が、部下と共に敵陣に切り込み、「百人斬り競争」しているように描かれている。しかし、それが誰の命令によるものかは分からない。まるで二人が「私的盟約」に基づいて兵を動かしているようにも見える。しかし、軍隊ではこのような「命令無視」の戦闘行動は絶対に許されない。もし私兵を動かしたとなれば、直ちに処刑されても仕方ない。
○ つまり、この記事に書かれたような戦闘は軍隊ではあり得ないのである。だから、この記事をもとに中国人が作成したと思われる本多版「百人斬り競争」には、上官が登場し、両少尉に「殺人ゲームをけしかけ」、三度次のような命令を下したことになっている。また「賞を出そう」とは、極めて中国的な「傭兵的」発想ということができる。
「南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった。『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、今度は百五十人が目標だ」。
だが、この記事は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」とは、競争区間も人数もゲームのルールも違っている。ベンダサンは、本多氏がこの記事を本多版「百人斬り」が事実である証拠として持ち出したことに対して次のように言った。「事実」と「語られた事実」は別である。我々は「語られた事実」しか知り得ない。従って、「事実」に肉薄するためには、「語られた事実」をなるべく多く集めて、その相互の矛盾から事実に迫るしかない。ところが本多氏は、この矛盾に満ちた二つの「語られた事実」をそのまま「事実」としていると。
○ なお、近代戦においては、銃や機関銃で武装している敵に、日本刀で切り込むようなことはできない。そのため、本多版「百人斬り競争」では、相手が兵士ではなく中国人となっている。つまり、兵士を相手とした「武勇伝」のはずが、住民・捕虜を対象とした「殺人ゲーム」になっているのである。そこで浅海版の「百人斬り競争」を見てみると、二少尉がその部下と共に敵陣に日本刀で切り込んだようになっているが、敵の武器については何も書かれていない。つまり、それを書くと、銃や機関銃を持った敵に日本刀で切り込んだことになりフィクションであることがばれるので、あえて敵の武器を隠したのである。
○ 山本はこのような分析を経て、この「百人斬り競争」の記事は、記者がで創作したのではないかと考えるようになった。あるいは、この記者は、両少尉の話を信じただけ、つまり彼等の職務が砲兵や副官であることを知らないままにこの記事を書いたのではないかとも考えた。しかし、これについては、佐藤振寿記者の次の証言によって、浅海記者は、「野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長」であることを知っていたことが明らかになった。
佐藤記者が常州に着いた時、「浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んできた」そこで「私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた」「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。・・・(そこで)”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。」(『週刊新潮』昭和47年7月29日号)*この時、佐藤振寿記者は、こんなばかげた話はありえないと思い信用しなかったという。
○ つまり、浅海記者は両少尉の職務を知っていたが、それが紙面に出ては「百人斬り競争」の真実味がなくなるので、両少尉の本当の職務を隠し、あたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのようにしてこの記事を作成したのである。こうした記事作成上の作為は浅海記者にしかできない。つまりこの記事は、浅海記者が単に両少尉の話を聞いたまま記事にしたのではなく、まず浅海記者自身に「百人斬り競争」武勇談の構想があり、それに協力してくれる役者=兵士を探し、つまり「ヤラセ」によってこの記事は作成されたのである。
○ ここに至って山本は、次のような疑問に行き当たった。自分はこれだけの資料を得て、しかも自分がかって砲兵であり、また副官の職も経験したので、彼等の戦場心理も理解でき、それで、ようやく浅海記者の記事がフィクションであることを見抜くことが出来た。しかし、なぜベンダサンはこれらがない中で、この記事をフィクションと断定できたのかと。そこで、ベンダサンに問い合わせをした。暫くして返事が返ってきたが、それは次のようなものであった。
○ この記事は戦場で100人の敵兵をどちらが先に殺すかを競う競技である。競争には必ず審判と勝敗を判定するための基準となるルールが必要である。従って、この競争を戦場でやるためには、戦闘中、審判者が両少尉につきそって走りつつ、何人殺したかを数えなければならない。そして、一方が100人に達した時ストップをかけ、それを相手に知らせ戦闘を中止しなければならない。
しかし、そのような事は戦場では不可能である。記者はこのことに第一報を送った後に気がついた。そこで、競技のルールを、数を限定して時間を争う競技から、時間を限定して数を争う競技に変更する必要に迫られた。そこで、これをできるだけ他に覚られない方法で行うため、第四報(山本は四報あった「百人斬り競争」の記事の中の第二、三報を飛ばしてこれを第二報としている)にある10日の次の会話を両少尉に”ヤラセ”た(山本はこれは浅海記者の創作としている)。
野田 「おいおれは百五だが貴様は?」 向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。
もし、この競争が事実であれば、これはあくまで時間を競う競技だから、野田少尉は向井少尉に、まず100人に達した時間を聞くはずである。しかし、ここでは数を聞いている(と言うことは競争のルールが判っていない?)。また、その後の会話では「いづれが先に百人斬ったかこれは不問」といっている。これは、競技のルールを時間を競う競技から数を競う競技に転換すると同時に、それまでの時間を争うルールを「これは不問とする」という言葉で巧妙にキャンセルしたということである。こんな芸当が戦闘中の兵士に出来るわけがない。
つまり、この「百人斬り競争」は、まず戦場ではあり得ないルールを設定していることからしてフィクション臭いが、以上説明したようなゲーム途中におけるルールの変更を、出来るだけ人に気づかれないように行っていることから見ても、これは誰かが作為的に行ったこととしか考えられず、それが出来るのは浅海記者だけであるから、この「百人斬り競争」の記事は、記者によって創作されたものと断定したのである。
○ これがベンダサンの山本に対する返事だった。(このあたり、ベンダサンは山本との通説が一般的になっている現在、奇妙な感じがしますが、ここでは触れません。)山本は、このような見方ができることに全く気がつかず、ユダヤ人にはこんな論理的な見方が出来るのかと驚いた。そういえば、中国人が語った本多版「百人斬り競争」にも、浅海版にあるような論理的矛盾が見られず、中国人は日本人よりも論理的なのではないかと言っている。
(以下山本の見解も交えた渡邉の見解)
*参照「百人斬り競争」資料
浅海記者が書いた「百人斬り競争」の記事の中で裁判所が問題としたのは、両少尉の会話の内「自白」と見なされた部分である。山本はこれを10日の両少尉の会話のみとしているが、常州での会話も「自白」と見なされ得る。従って、先に紹介した「上訴申弁書」には、「貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その「自白」が事実と符合しないのであるから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできない」旨の申し立てがなされている。
また、戦闘継続中に職務も指揮系統も違う両少尉が10日、11日と2日続けて記者会見に応ずるというのもおかしい。実際の会見は、鈴木二郎記者の証言から11日と思われるが、この日に、上記のルール変更の会話を鈴木記者の前で両少尉にさせることは困難だから、これを10日のこととして、上記の両少尉の会話を創作したのであろう。この作為の跡は「十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった」という、未来のことを過去形で語った叙述にも見ることができる。
また、11日の会話には、向井少尉の鉄兜の唐竹割りや、紫金山残敵あぶり出しの会話がでてくるが、山本は、鉄兜などという言葉は軍では使わないし、また、紫金山残敵あぶり出しというのは毒ガスのことで、軍では絶対の軍事機密であり、これを口に出すとは軍の常識では考えられない。おそらく、この会話は、紫金山の戦闘が終わった後の安全地帯における会話と思われるが、ほとんど酩酊したような精神状態の中で発せられた言葉としか考えられないという。
では、なぜ向井少尉はこのような「軍の常識では考えられない」発言をしたのか。山本はその原因を次のように推測している。向井少尉は丹陽郊外で負傷し、その負傷の持つあらゆる恐怖(負傷による破傷風などで「生きた死体」になること)から解放されたばかりで、その喜び、それに実戦に参加しなかった引け目、その裏返しとしての強がり、これで戦闘は終わったという安堵感(皆これで戦争は終わると思った)、その他手柄意識などの様々の感情が重なって、あのような支離滅裂な会話になったのではないかと。
ところで両少尉は、裁判において、常州での会見も紫金山周辺での会見も否定している。これは、先ほど指摘した通り、ここでなされた会話が、裁判において「自白」と見なされたからである。これらの会話は、実際は浅海記者との談合に基づく「やらせ」であって事実ではない。しかし、これを裁判で「自白ではない」と主張することは極めて困難だから(ここに日本人における「迎合」の問題がある)、これが事実ではない事を主張するためには、この会見自体を否定する他なかったのである。
(つづき)
以上の山本の分析を通して、私は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」は、まずその構想が浅海氏にあり、その協力者を探すため無錫で両少尉に近づき、両少尉の里心(これが軍隊では実に強烈な誘因となったらしい参照:戦場の精神的里心)や手柄意識を、”新聞に載る――それによって無事を親元に知らせることができる”ことでくすぐり、架空の「武勇談」を両少尉に語らせ、それを聞き取る形で戦意高揚の記事を作成した。あわせて、戦場のまっただ中で取材活動をしている?自分をアピールしようとしたのではないかと思いました。
その様子は、先に紹介した「上訴申弁書」に次いで作成された「第二上訴申弁書」に付された、次の野田少尉の「百人斬り競争記事の真相」の内容とほぼ符合します。ただし、常州と紫金山周辺における会見が漏れているのは、前回説明した通り、「やらせ」で喋らされ、あるいは創作された会話が、裁判で「自白」と見なされたためです。また、この「真相」は「第二上訴申弁所」に付したものでしたので、この事実は隠さざるを得なかったのだろうと私は推測します。(参照:「戦場におけるホラ・デマ」)
野田少尉の「百人斬り」新聞記事の真相
〈「被告等は死刑判決により既に死を覚悟しあり。「人の死なんとするや其の言や善し」との古語にある如く、被告等の個人的面子は一切放擲して、新聞記事の真相を発表す。依って中国民及日本国民が嘲笑するとも、之を甘受し、虚報の武勇伝なりしことを世界に謝す。十年以前のことなれば、記憶確実ならざるも、無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一節、左の如きものもありたり。
記者「貴殿等の剣の名は何ですか」
向井「関の孫六です」
野田「無名[銘]です」
記者「斬れますかね」、
向井「さあ未だ斬った経験はありませんが、日本には昔から百人斬とか千人斬とか云ふ武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜を斬ったとか云ふが」
記者「一体、無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」
向井「常に第一線に立ち、戦死さへしなければね」
記者「どうです、無錫から南京まで何人斬れるものか競走[争。以下、同じ]してみたら。記事の特種を探してゐるんですが」
向井「そうですね、無錫附近の戦斗で、向井二〇人、野田一〇人とするか。無錫から常州までの間の戦斗では、向井四〇人、野田三〇人。
無錫から丹陽まで六〇対五〇、
無錫から句容まで九〇対八〇、
無錫から南京までの問の戦斗では、向井野田共に一〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」
野田「そんなことは実行不可能だ。武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
記者「百人斬競走の武勇伝が記事に出たら、花嫁さんが刹[殺]到しますぞ。ハハハ。写真をとりませう」
向井「ちょっと恥づかしいが、記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借[貸]してあげませうか」
記者「記事は一切、記者に任せて下さい」
其の後、被告等は職責上絶対にかゝる百人斬競走の如きは為ざりき。又、其の後、新聞記者とは麒麟門東方までの間、会合する機会無かりき。
したがって常州、丹陽、句容の記事は、記者が無錫の対話を基礎として、虚構創作して発表せるものなり。尚、数字に端数をつけて(例、句容に於て向井八九、野田七八)事実らしく見せかけたるものなり。
野田は麒麟門東方に於て、記者の戦車に搭乗して来るに再会せり。
記者「やあ、よく会ひましたね」
野田「記者さんも御健在でお目出度う」
記者「今まで幾回も打電しましたが、百人斬競走は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに【行替え後、一行判読不可能】
野田「そうですか」
記者「まあ其の中、新聞記事を楽【し】みにして下さい。さよなら」瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。
尚、[当]時該記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として、紫金山に於いて向井野田両人が談笑せる記事、及向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。
右述の如く、被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出でたるは、全く被告等の責任なるも、又記者が目撃せざるにもかかわらず、筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一半の責任あり。
貴国法庭[廷]を煩はし、世人を騒がしたる罪を此処に衷心よりお詫びす。〉
この「百人斬り競争記事の真相」は、死刑判決が12月20日にあり、12月22日に先に紹介した第一回「上訴申弁書」を書き、それでも再審が認められなかったので、最後の望みを託して、「自分の個人的面子は一切放擲」して新聞記事の真相を打ち明けたものです。しかし、残念ながらこれは提出には至らなかったようです。しかし、なんとしても自分らに着せられた住民・捕虜虐殺の汚名だけは晴らしたいと思いこれを後世に残したのです。
なお、この「真相」の末尾には、記者の責任に言及する部分が出てきます。これは、二少尉以外で事実を知る者は浅海記者だけで、彼だけが、この記事が創作であることを証言できる。しかし、氏はついに、この事実を証言せず、「記事は両少尉から聞いたままを書いた、ただし見ていない」としか言いませんでした。つまり、両少尉は浅海記者に裏切られたわけですが、そのことへの不満が、ここでようやく表出したのではないかと思います。俺たちが死ねば「死人に口なし」ということかと・・・。実際、この事実は、本多勝一氏が朝日新聞の「中国の旅」で「百人斬り競争」(s46)を報じ、これをベンダサンがフィクションと断定(s47)するまでは誰も知らなかったのです。この点で本多氏は、一定の役割を果たしたといえるのかも知れませんね。
その後、両少尉は遺書を書き始めました。両氏ともかなりの分量になりますが、その内容には全く驚かざるを得ません。自ら「南京大虐殺」につながる住民・俘虜の「百人斬り競争」の汚名を着せられ死刑判決を受けながら、公判中も堂々たる態度を崩さず、日本及び日本人に対する警鐘を行い、日中両国の友好親善を祈りつつ、なお自分の死を以て今後日中間に怨みを残すなと伝言するなど、戦後生まれの私たちには到底まねの出来ない立派な態度だと思いました。なお遺書は、向井少尉の立派な遺書も沢山ありますが、紙面の都合上、野田少尉(終戦時は大尉)の「日本国民に告ぐ」を紹介します。
(つづき)
次は、野田少尉が、最終的に第二回「上訴申弁書」の提出を諦め、自らの死を覚悟した後に書かれた「日本国民に告ぐ」と題された遺書です。
参照:百人斬り競争」資料 「日本国民に告ぐ」
これを読んで、胸の詰まる思いをしない日本人はいないでしょう。ところで、この両少尉の死が、その他の中国に捕らえられていた日本人戦犯二百六十名の命を救ったかも知れないのです。というのは、この「百人斬り競争」は東京裁判でも審理がなされ、両少尉それに浅海記者も取り調べを受けたのです。その結果、この記事はすべて「伝聞」によるものであるとして、「東京裁判では本裁判は無論のこと、個人を裁く『戦争放棄を無視したC級裁判』としても、このことを立証し有罪に持ち込むことは不可能である」と判断され起訴はされなかったのです。
ところが、両氏を南京事件の容疑者として南京に送れとの中国からの要請があり、マッカーサー総司令部司法部長のカーペンターは「中国では公正な裁判ができるのか、あるいは、少なくとも表面的に、公正な裁判であることを印象づけられるような裁判ができるのか」危惧しましたが、結果的には、先に谷寿夫をB級戦犯容疑者として南京に送った経緯があり、二人を南京に送ることに同意しました。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』P306)
その結果、カーペンターが危惧した通りのことが起こった。当時中国では「国共内戦」が後半期にさしかかっており、国府軍は全東北地方から撤退しつつあり、共産党は国共内戦の最大の山場である「北京戦」に勝利し、北京に入城し、「北京市人民政府」を樹立していました。そこで、カーペンターは谷寿夫、向井、野田両少尉の裁判の様子を聞き、「もうこれ以上は待てない」と思ったのか、中国に捕らえられている日本人戦犯260名を、共産党に引き渡すことなく日本に帰還させたのです。(上掲書322)
つまり、野田、向井両少尉等の裁判が、新聞記事だけを証拠に死刑判決を下すという近代法では考えられない無謀な裁判となったことによって、その他の日本人戦犯260名は、無事日本に召還されたのです。この事実が両少尉にとっていくらかでも慰めになればと思いますが・・・。
一方、この虚報によって両少尉を死に追いやった日本の記者及び新聞社の責任はどうなるでしょうか。山本七平は30年ほど前に書いた『私の中の日本軍』の中で次のように言っています。
「この事件は、今では、中国語圏、英語圏、日本語圏、エスペラント語で事実になっている。しかし、明らかに記事の内容自体は事実ではない。従って、これを事実と報じた人びとは、まずそれを取り消して二人の名誉を回復して欲しい。独裁国ですら、名誉回復と言う事はあるのだから。そして二人の血に責任があると思われる人もしくは社(東京日日新聞現在は毎日新聞=筆者)は、遺族に賠償してほしい。戦犯の遺族として送った戦後三十年はその人々にとって、どれだけの苦難であったろう。
人間には出来ることと出来ないことが確かにある。しかしこれらは、良心とそれをする意志さえあれば、出来ることである。もちろん私に、そういうことを要求する権利はない。これはただ、偶然ではあるが、処刑された多くの無名の人々の傍らにいた一人間のお願いである。」(山本七平ライブラリー『私の中の日本軍』P247)
ご存じの通り、この事件は裁判でも争われました。この裁判のポイントは、「浅海記者は両少尉の話をあくまで事実として聞きこれを記事にした」と認定したことにあります。毎日新聞社も取材は適正に行われたと主張しています。従って、仮に、この「百人斬り競争」が虚偽だったとしても、それは「誤報」であって「虚報」ではないというのです。朝日新聞が、この事件を戦闘行為ではなく「住民・捕虜の虐殺」だったとする書籍を販売していることについては、歴史的事件の「論評」であって言論表現の自由の範囲内としました。
つまり、この「百人斬り競争」事件のポイントは、私が本論の冒頭で述べた通り、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いた話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約されるのです。浅海記者は、東京裁判検察官の尋問に際しても”真実=事実として聞いた”と答えています。はたしてそうか。確かに、この記事は、二少尉が「語り」それを浅海記者が記事にしたものであることは間違いありません。
だが、それは戦場心理を逆用した「ヤラセ」だったのではないか。浅海記者はそれを事実らしく見せるため、わざわざ佐藤振寿記者や鈴木記者を連れてきて「証人」としたのではないか。だが両氏は浅海記者に誘われて両少尉と会見している。もちろん両氏とも、浅海記者が両少尉と無錫で談合した事実を知らない。また佐藤記者は両少尉より”数の勘定はお互いの当番兵を交換して・・・”と聞いたが、第二報の記事では「東日大毎の記者に審判になってもらうよ」となっている。また、鈴木記者は、この競争のルールを「南京まで(=一定の時間内)に100をめどにどちらが多くの敵を斬るか」だと思っている。
ということは、この競争において誰が審判を務めるかということも、その競争のルールが何であるかということも、プレーヤーである両少尉が知らず、佐藤記者は審判を当番兵と聞き、鈴木記者はそのルールを「時間を限定して数を競う」ことと理解していたということです。そして、これらを「知っていた」のは実に浅海記者ただ一人だった。だからルールの変更も出来たのです。これだけのことをやっていて、二少尉の話を「事実として聞き、そのまま記事にした」と言えるでしょうか。自分が創作した記事だからこそ、先に指摘したような「事実」に見せかけるための数々の細工が出来たのではないか。
以上本稿では、この事件を、浅海記者は両少尉の話を「事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という観点に絞って、山本七平やベンダサンの分析を紹介してきました。これによって、それが「ヤラセ」であったことは明白になったと思います。そして、これが架空の武勇談であれば、その後の、これを「住民・捕虜虐殺」事件とする議論は全て霧消します。にもかかわらず、あえてこれを証明しようとする人たちがいますが、それは、冤罪が確定した人物の余罪を探し回るような行為であって、止めはしませんが正気とも思われません。
つまり、この事件についての論争は、山本七平が以上のような論証を行った30年前に、すでに決着していたのです。そもそも裁判は、訴因に基づいて法律的な判断をするだけで、歴史的事実を解明するものではありません。従って、その判決如何に関わらず、毎日新聞社は、この事件の結末について報道機関としての責任があります。また、朝日新聞社も権的な行為は止めるべきです。これは山本七平が言ったように、まさに日本の報道機関の「良心」の問題です。
一刻も早くこの事件に決着を付け、これを、昭和史の謎を解明する一つの手がかりとすると共に、日本人における迎合の問題やマスコミによる虚偽報道、言論空間における空気支配の問題を克服するための”歴史的教訓”とすべきだと思います。(下線部挿入)
以上
資料:「百人斬り競争」資料
なお、以上紹介した山本七平の論証について、これを洞富雄氏によってすでに論破されたもの、とする意見が寄せられていますので、この時の洞氏の論理と、それに対する私の反論を紹介しておきます。これをみていただければ、「百人斬り競争」論争はすでに30年前に決着していることがお分かりいただけると思います。
参考:洞富雄氏の論理を検証する――洞氏は山本七平の論証を論破したか
「百人斬り競争」論争における現在と未来
前回、5回にわたって「百人斬り競争」事件に関する記事を投稿させていただきました。何を今さら、と思われた方もいるかと思います。この論争は、ベンダサンvs本多論争以来の議論の積み重ねがあるし、裁判でも争われたのに、それを無視しているのではないかと・・・。
では、その後、この論争はどのように発展してきたでしょうか。実は、それは、「日本刀の硬性」=日本刀で何人の捕虜等を殺傷できるかなどの、脇道にそれた議論に終始しただけで、論争としてはほとんど進歩がなかった、と私は考えています。
ところで、この「日本刀の硬性」ということについては、秦郁彦氏が「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実(二)」で、山本の「日本刀はバッタバッタと百人斬りができるものではない」という言に対し、無抵抗の捕虜を据えもの斬りする場面を想定外としていることと、成瀬著の『戦ふ日本刀』から都合のよい部分だけ引用している、という二つの理由から、「トリック乃至ミスリーディング」と評しています。
しかし、山本が日本刀の脆弱性について言及したのは、東日の新聞記事の第4報で、両少尉が互いに100を超えたレコードを「さすがに刃こぼれした日本刀を片手に」報告し合い、さらに向井少尉が、記者の前で「俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ」と述べたことを受けてのことでした。
つまり、本当に両少尉が百人斬り競争をしたとすれば、その時の日本刀は、血糊による刃先の腐食、刃こぼれ、刀身の曲がり、目釘のがたつきなどでひどい状態になっていたはずで、記者らはその日本刀を見たのか、それを見れば、「百人斬り競争」が事実であったか否かすぐに分かったはずだ、と言っただけのことです。
そもそも、捕虜等を「据えもの斬り」で殺そうと思えば、何も日本刀を使わなくても、カミソリでも可能です。つまり、なぜここで「日本刀の硬性」が問題になったかといえば、近代戦において日本刀で100人の敵をバッタバッタ殺すようなことはできない、という単純な事実を指摘したに過ぎません。このことは、成瀬の著書によらずとも、本多氏等が持ち出した鵜野晋太郎の証言でも証明されます。
また、「百人斬り競争」裁判も行われました。その判決は、「百人斬り競争」の記事の内容を信じることは出来ないし、その戦闘戦果ははなはだ疑わしいと考えるのが合理的である。しかし、両少尉が新聞報道されることに違和感を持たなかった、つまり、その記事の元となった武勇伝を記者に話したことは事実であるから、これを記者の創作記事であり全くの虚偽であると認めることは出来ない、というものでした。
また、朝日新聞の出版した書籍に、両少尉を「殺人ゲームの実行者」「捕虜虐殺競争の実行者」と名指しする表現があることについては、これは甚だしい名誉毀損表現であるから、控訴人等が受けた精神的障害を賠償する義務がある、としました。ただし、本件摘示事実(捕虜等を「据えもの斬り」したと主張されていること)が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないので、当該書籍の出版差し止め等は認められないとしました。
これは要するに、たとえ両少尉が「ヤラセ」で武勇談を語らされたとしても、あくまで本人が語ったことであって、いわば自白と見なされるということです。従って、これが記者の利益誘導によるものであっても、その対象となった戦場心理(参照「戦場の精神的里心」)は戦後生まれの裁判官には分かりませんから、その結果、両少尉の「自白」が重視され、「ヤラセ」を誘導した記者の責任は問われない、ということになったのです。(南京裁判と同じですね)
また、「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽である事が証明されたわけではない、とする判断については、その論拠となったのは、大なり小なり、この「百人斬り報道」の延長あるいは余波としてなされた両少尉の言動、あるいはそれにまつわる伝聞証言や手紙その他新聞記事等であるようです。しかし、これらはその何れも「百人斬り競争」報道がない限り、生まれないものでした。
ところで、この両少尉の「百人斬り競争」が新聞記事となるについてとった態度には違いがあって、山本七平は、向井少尉が主導的な役割を果たし、野田はそれを茶化しながらも親しい友人のことだから「引き立て役」で付き合う、といった態度だと見ていました。実際、記事にある台詞は、ほとんど向井少尉で、野田少尉の会話は以下のような半ば冗談のようなものでした。
それは、第一報の野田の会話「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」に現れています。というのは、軍隊では人称代名詞を使う場合は必ず「自分は」でなければならず、「ボク、キミ、アナタ、ワタシ」は禁句で、次のような戯れ歌まであったといいます。”ボクといったら撲られた、ワタシといったら撲られた、ホンマに軍隊ヘンなとこ”。
また、この「百人斬り競争」は「前線ではさしたる話題にはならず、なっても新聞の誇大な武勇伝の一つとして軽く受け止められていた」。しかし、数年経つと内外を問わず二人は有名人になってしまい、「二人はどう対応したらよいかとまどったようすが窺える。話題を振られると、小心なところがあった向井は苦い顔で沈黙し、剛胆奔放な野田は開き直って茶化すという正反対の対応に走った例が多」かった、と秦氏は述べています。(秦上掲論文)「百人斬り」裁判で提出された新資料にはこうした両者の性格の違いがよく現れています。
また、これらの資料の中でとりわけ注目を集めたのが、望月五三郎の『私の支那事変』(私家版)における「百人斬り競争」に関する記述でした。ここでは「百人斬り競争」はまるで絵に描いたような住民(=農民)虐殺競争として描かれています。しかし、この本の出版は昭和60年7月1日で、本多氏等が「虐殺説」を唱えはじめた後の出版であり、前後の文脈からして不自然で、資料的価値は全くないと思います。
そもそも、両少尉の所属する第16師団が白茆口に11月15日頃上陸し、無錫から紫金山まで約180キロの間を14日間で、後退する敵と戦闘を交えながら走破した強行軍において、そんな農民=住民虐殺ゲームなどやってる暇などなかったはずです。また、前回も指摘しましたが、この強行軍の中で多忙を極める大隊副官と歩兵砲小隊長が、自らの職務を放棄して、このような残虐な私的競争をやるなどあり得ない話で、また、軍紀上も決して許されなかったと思います。
また、戦後生まれの私たちは、時代劇の影響で人を斬ることが簡単なように思っていますが、実は、「人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮かんできたり、夢に出てきたりするほど、衝撃的なこと」だといいます。「従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、先ず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないもの」なのだそうです。まして、それを武勇談にして新聞に載せるなどありえない話です。
にもかかわらず、裁判所の最終判断が、「百人斬り競争」において示された「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないとしたのは、これらの新資料によるのではないかと思われます。しかし、こうした判断は、前回の論考で述べた通り、東日の「百人斬り競争」記事が「ヤラセ」であったことが証明されれば、自ずと消えて然るべきものです。そして、その証明は30年前の論争で決着したと思っています。
聞くところでは、南京大虐殺記念館を世界遺産として登録申請しようとする動きもあるそうです。その時、その入り口に掲げられた等身大の両少尉の写真は、私たちに何を語りかけるでしょうか(前回紹介した野田少尉の日本国民に向けた遺言も想起すべきだと思います)。その時までに、私たち日本人は、この事件の真相を明らかにしておく必要があると思います。なにしろそれは、戦意高揚をねらった日本の新聞記事により引き起こされた歴史的冤罪事件だったのですから。
最近気づいたのですが、「百人斬り競争」は「非戦闘員殺害」だったと思い込んでいる人が意外と多いようですね。また、こういう人たちは、論争によってそれが事実でないことが分かっても、その話(=自白)をしたのは両少尉であり、記者はそれを記事にしただけ。従って、それが「非戦闘員殺害」の証拠となり処刑されても、それは、自業自得、と考えるようです。
おそらく、これは「百人斬り競争裁判」の結果がもたらした印象なのではないでしょうか。私自身のこの裁判についての感想は、裁判所が相変わらず「雲の下論」(*本稿3で説明します)的な事実認定をしていることの驚き。もう一つは、この裁判では、この事件の事実関係について、それまでの論争で積み上げられた論証が、ほとんど生かされなかったということです。
というのは、それまでの「百人斬り競争」論争における議論の焦点は、記者が両少尉から「百人斬り競争」の話を聞いたことは明らかだが、では、記者はその話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか、ということでした。そして、この点については、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、山本七平らの研究によって、記者が両少尉の戦場心理を利用して武勇伝の”ヤラセ”をさせ、それを取材したように見せかけて戦意高揚記事を書いた、ということでほぼ決着していました。
この論争で本多勝一記者は、論争の開始当初、氏が中国で聞いてきた「殺人ゲーム」が事実であることの証拠として、この新聞記事を掲げていました。従って、論争の結果、この新聞記事が上述したような”ヤラセ”記事であったことが判明した段階で、その新聞記事を「元ネタ」にした「殺人ゲーム」は、いわゆる「虚報が生み出した悲劇」とすべきでした。
ところが、本多記者及びこれを支援する朝日新聞は、その後の論評でも、また「百人斬り競争」裁判でも、いわゆる志々目証言の他、中帰連メンバーであった鵜野晋太郎の捕虜殺害体験談、それに新たに発見された望月五三郎の私家本『私の支那事変』の記述などを証拠として、「百人斬り競争」は「捕虜(据えもの)百人斬り競争」であったと主張しました。
そもそも、小学生の頃に野田少尉の話を聞いたという伝聞証言や、両少尉とは無関係な残虐兵士の証言、それに「据えもの百人斬り競争」説登場後に書かれた私家本の記述などが、人権尊重第一、「疑わしきは罰せず」を基本原則とすべき今日の裁判において、証拠になるのでしょうか。
この裁判における最終判決は次のようなものです。
「南京攻略戦闘時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、1本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある『百人斬り競争』の実態及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の『百人斬り』の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である。
しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」
前段は、新聞記事に記された戦闘行為としての「百人斬り競争」について、「その内容を真実ことができず」「はなはだ疑わしいと考えるのが合理的」というのですから、それでよろしいと思います。しかし、後段の、両少尉が「『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体は否定できない」というのは、一体どういうことでしょうか。
これは、この「百人斬り競争」の新聞記事中で、両少尉が「百人斬り競争」を肯定する会話をしている、ということでしょう。つまり、「この記事の全てが記者の創作」とは言えない、といっているのです。実は、ここに、原告側の”新聞記事は全て記者の創作”とする「事実の摘示」の誤りがありました。事実は、先に述べた通り、これは「ヤラセ」記事だったのですから。
つまり、記者は、両少尉に武勇伝としての「百人斬り競争」の「ヤラセ」をさせ、その会話を巧みに記事に織り込んで戦意高揚記事を書いたのです。ところが、原告側が、この記事の全てを記者の創作とし、両少尉は常州以外では記者と会っていないとしたため、次のような問題が起こりました。
第一に、両少尉のいう無錫郊外での記者との三者談合(そこで”ヤラセ”談合が成立した)の存在が不明確になったこと。次に、第四報の舞台となった紫金山に、両少尉が行っていないことを証明しなければならなくなったことです。(もっとも、これは記事中の紫金山の戦闘地域には行かなかったという意味かも知れませんが・・・)
そして、こうした両少尉のアリバイ主張が、それぞれの属した部隊の作戦地域の検証でくずれた結果、記事中の両少尉の会話の「ヤラセ」部分と、記者による創作部分の腑分けができなくなったのです。そのため、全体的な印象として、両少尉が「百人斬り競争」を「自白したのは事実」→自業自得との印象を持たれることになったのです。
また、それと同時に、そうした両少尉の会話以外の部分の記述についても、同様に、それが両少尉の話をもとにしたものか、それとも、記者が記事に整合性をもたせるために創作したものか、その判別ができなくなってしまったのです。そのため、記者の”両少尉から聞いたままを記事にした”という言葉への反証が困難になりました。
先に紹介した裁判所の最終判断は、こうした議論の流れを受けたものと思われますが、では、原告側はなぜ、このような、それまでの研究成果を無視した「事実の摘示」を行ったのでしょうか。あるいは、記事中に両少尉の「自白」部分を認めることは、裁判では不利との判断があったのでしょうか。
また、こうした主張は、両少尉が南京裁判の過程でもしていましたから、その証言の信用性を維持しようとしたのかもしれません。といっても、両少尉の場合は、その主張の根幹が、新聞記事は記者が構想したものであり、従って、「ヤラセ」でしゃべらされた自分たちの会話も、記者の「創作」とする意識が働いたものと思われます。
そこで、次に、この新聞記事の内、どの部分が両少尉が「ヤラセ」でしゃべらされたものか、あるいは記者の創作によるものかを、それまでの鈴木明や山本七平が行った論証に見てみたいと思います。
「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと
1月30日の産経新聞に、30日富山で行われた日教組の教育研究全国集会において、日中戦争の南京戦で報道された日本軍の“百人斬(き)り”を事実と断定して中学生に教える教育実践が報告された、との記事が掲載され、ネットでも話題になっています。この事件が冤罪であることはほぼ確実ですので、事実とすれば、何と不勉強なことかと思い、事実を確認してみました。
次は、その部分の記述内容です。
「これは、中国で撮られた写真と新聞記事です。何の写真でしょうか」字が小さいので、こちらで見出しだけ読んであげた。
「百人斬り超記録」「向井1 0 6-1 0 5野田」「両少尉さらに延長戦」‥‥
それでも、生徒たちはピンと来ない様子。「『百人斬り』って、誰を斬ったの?」「そう、中国人をね。日本は中国に攻め入って。たくさんの中国人を殺しました。考えてみてください。普通の世の中であれば、一番してはいけないことは何ですか?」急な質問に生徒たちはとまどっている。質問を変える。「では、一番重い罪になるのは何ですか?」「人を殺すこと」「そうだね、人を殺すこと。だけどどうだろう。戦争になったらこのように、人を殺すことは良いことだということになってしまう。相手国の人をたくさん殺せば殺すほど、勲章がもらえてたたえられるんです。この記事が新聞に載ったということは、この記事を見た日本め人たちはすごいと賞賛したんでしょうね。だから記事になってるんです。
戦争になれば、価値は大逆転するんです。人を殺すことが手柄になってしまう。もうそうなったら、何でもありです。相手国の人の物を盗む?家を燃やす?女性に乱暴する?‥・.すべてが許されることになうてしまいます。だから、殺されたのは兵士だけではなく、一般のお年寄りや女性、子どもたちもです」
レポートの「百人斬り競争」に関する記述はこの11行だけです。これを読む限り、この授業の焦点は、「百人斬り競争」の事実云々というより、むしろ、これを兵士の手柄として報道した新聞、それを日本人が”すごい”と称讃した事実に重点が置かれているように思います。つまり、ふだんは人殺しは一番重い罪なのに、戦争になるとこんな風に価値観が逆転するのだ、ということを教えているのです。
これに対して、今回の産経新聞の報道では、この教師が「”百人斬り競争”を事実として教えたこと」を問題にしています。拓殖大学藤岡正勝教授も「事実でない中国のプロパガンダを教えるという意味で問題。わが国の歴史に対する愛情を深めさせることを求めた学習指導要領にも反しており、極めて不適切だ」と言っています。
しかし、この教師は、授業の始めに、この新聞記事を生徒に見せ、それを日本が中国に攻め入ってたくさんの中国人を殺した、という話につなげているだけで、この事件の事実関係についての説明は一切していません。だが、こうした印象操作による問いかけを受けた生徒達は、当然これを事実と思い込むわけで、これは、生徒たちの感想文「多くの人を理由もなく殺し・・・」という言葉に現れています。
だが、もしこの生徒達が、この先生の印象操作によって、「多くの人を理由もなく殺した」その典型例と思い込んだ「百人斬り競争」が、実は、この新聞で報道された内容とは似ても似つかぬものであったことを知れば、この素直な生徒達は、一体どのような感想を持つでしょうか。あるいは、残虐非道な日本軍人というイメージから、”なんてひどいマスコミ!”に転化するかも知れません。また、この二少尉が意外にも立派な日本人であったことに誇りを感じるかも知れません。
本稿は、以下私の述べることが絶対正しいと主張するものではありません。しかし、今日までに出てきた資料を分析する限り、この「百人斬り競争」は、この教師が印象操作したような、日本軍人の残虐行為を示す典型例では決してなかった。従って、この事件から生徒達が学びうることは、マスコミによって事実は如何様にでも変えられるということ。「虚報」はどのようにしたら見抜けるか。あるいは、この二少尉の残した遺書から、何を学ぶことができるか、等々だろうと思います。
この「百人斬り競争」事件は、こうした、今日の日本人にとっても大きな課題となっている事実認識や価値判断の問題、また、自分自身の生き方を考える上でも、極めて示唆に富む内容を含んでいると思います。それだけに、今回の日教組教研集会における「百人斬り競争」を題材にした平和教育は、この事件の真相は一切問わないままに、一方的に、二少尉を「多くの人を理由もなく殺した」残虐な日本軍人の典型としただけでなく、上記のような「知恵」を学ぶ機会を生徒達から奪っているように、私には思われました。
そこで、以下、この事件の真相について、私が理解している範囲で、できるだけ分かりやすく説明し、皆さんの参考に供したいと思います。
まず、この「百人斬り競争」事件の核心は、この事件が事実であったか否か、ということにあるのではなくて、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約される、ということを述べておきたいと思います。
言うまでもなく、南京軍事法廷において、二少尉が有罪とされたその唯一の証拠は、この記者が書いた「百人斬り競争」の記事だけでした。このことは、両少尉がこの軍事法廷において死刑判決(昭和22年12月18日)を受けた後、この法廷に提出した「復審を懇請」するための上訴申弁書(12月26日)に明らかです。
次にそれを示しますが、注目すべきは、この申弁書を書いた(12月20日)のは、向井、野田両少尉の弁護人を務めた中国人弁護士崔培均(官選弁護人)で、それを「陳某」(名不詳)が日本語に翻訳して向井敏明、野田毅両名に届け(12月22日)、両者連名で法廷長石美瑜に再審を懇請し、合わせて蒋介石への転呈(取り次ぎを願うこと)を願ったものだと言うことです。
この中国人弁護士崔培均は、「民衆で満員三階迄一杯」(ただしこの裁判に関しては「始めより終わり迄、民衆は声無く聞く」と向井少尉の「獄中日記」にある)の法廷において、彼等の弁護を務めたわけですが、この「上訴申弁書」では次のような申し立てがなされ、二少尉の無罪が主張されています。*野田はその遺書の中で「中国にもこの人あり、このような弁護士もおられるかと思ふと、日本と中国は真心から手を握らなければならないと思いました」と書いています。
なお、この申弁書は、向井、野田両名と共に南京の収容所に収監されていた戦友が、釈放後、ザラ紙一杯に細かく書き込まれた向井、野田両名の遺書と同時に、二人が最後に「上訴申弁書」として出した紙切れ二枚(「上訴申弁書」原文は漢文で、これはそれを和訳したもの)を、靴底に隠して日本に持ち帰り、遺族の許に届けたものでした。以下の文は、鈴木明が読みやすくするためこれをさらに現代語訳(( )内は鈴木の解説)したものです。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』p310)
[野田毅、向井敏明]上訴申弁書
民国三十六年十二月二十日
具呈人 向井 敏明 野田 毅
国防部審判戦犯軍事法庭
庭 長 石
国防部長 白 転呈
主 席 蒋
「被告向井敏明と野田毅は、民国三十六年十二月十八日に、国防部審判軍事法廷で、死刑を即決されました。しかし、この判決に不服がございますので、左の通り上訴申弁書を提出致しますので、再審をお願い申し上げます。
一、この判決は、被告たちの「百人斬り戦争」は、当時南京に住んでいたテインパーレー(原著名は田伯烈・そして、既にご存知のように、ティンパーリーは南京にはいなかった)の著『日本軍暴行記実』に鮮明に記載してあるので、これが間違いのない証拠である、と書かれておりますが、『日本軍暴行記実』に記載されている「百人斬り競争」に関する部分は、日本の新聞を根拠にしたものであります。この本は、この法廷にもありますので、改めて参照することは簡単であります。
ところが、原判決で”鮮明に記載してある”というのは、どのような根拠によるものでしょうか、判断が出来ません(「向井、野田両名を指してこの男が犯人だ」という証人が現れなかったことを示唆している)。その上、新聞記事を証拠とは出来ない、ということは、既に民国十八年上字第三九二号の貴最高法院の判例で明らかになっております。新聞記事は、事実の参考になるだけであって、それを唯一の証拠として、罪状を科することは出来ません。
なお、犯罪事実というものは、必ず証拠によって認定しなければならない、ということは、刑事訴訟法第二六八条に明らかに規定されております(後に調べたが、「中華民国刑事訴訟法第二六八条の中国語原文は、下記の通りである。「犯罪事實應依證據認之」)この、いわゆる”証拠”とは、積極証拠を指しているものであることもまた、既に司法院で解釈されていることであります。
ところが、貴法廷には、被告人が殺人競争を行ったことを証明する、直接、間接の証拠は全く提出されませんでした。単に、被告の部隊名や、兵団の部隊長であった谷寿夫の罪名が認定されたからといって、被告等に南京大虐殺に関して罪がある、と推定判断することは、全く不可能であります。
二、原判決では「東京日日新聞」と『日本軍暴行記実』には同じことが書かれてある、と認定しています。しかし。この本の発行期日は、「東京日日新聞」に記事が記載された後であり、ティンパーレーの方が、新聞記事を転載したことは明らかであります。さらに、新聞記者(東京日日新聞)浅海一男から、中華民国三十六年十二月十日に送付された証明書の第一項には、「この(百人斬りの)記事は、記者が実際に現場を目撃したものではない」と明言しております。即ち、この記事は被告等が無錫で記者と雑談を交したとき、食後の冗談でいったもので、全く事実を述べたものではありません。東京で、浅海一男及び被告の向井に対する『盟軍』(アメリカ軍のこと)の調査でも、この記事は不問に付されたものであります。
被告等が所属した隊は、民国二十六年二九三七年)十二月十二日、麒麟門(南京城の門名ではなく、南京城門外、東部にある地名を指す)東部で行動を止め、南京には入城しなかったことは、富山大隊長の証明書で明らかであります。これは、被告野田が、紫金山付近では行動していないことを証明するものでもあります。
また被告向井は、十二月二日、丹陽郊外で負傷し、その後の作戦には参加していませんでした。従ってこれも紫金山付近で行動していないことは、また富山大隊長の証言でも明らかになっています。
さらに申し上げれば、この新聞記事の中の”百人斬り”なるものは、戦闘行為を形容したものでありまして、住民、捕虜などに対する行為を指しているものではありません。残虐行為の記事は当時の日本軍検閲当局を通過することは出来ませんでした。このような次第ですから、貴法廷が”この記事は日本軍の検閲を経ているから、被告たちの行為は間違いない”と認定しているのは、妥当ではありません。以上のように、新聞記事は全く事実ではありません。
ただ、被告等と記者との食後の冗談に過ぎないのに、貴法廷の判決書には、多数の白骨が埋葬地点から堀り出されたことが証拠である、と書かれています。しかし被告たちが行ったことのない場所で、たとえ幾千の白骨が現出したとしても、これを被告等の行為であると断定する証拠にはなりません。
もし、貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その自白が事実と符合しないのですから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできません。
三、被告等は、全く関知しない南京大虐殺の共犯と認定されたことを、最も遺憾とし最も不名誉としています。
被告等は、断じて俘虜、住民を殺害したことはなく、また、断じて南京大虐殺に関係ないことを、全世界に向って公言しております。被告等が無罪であることは、当時の上官、同僚、部下、記者などがよく知っているだけではなく、被告等は今後、貴国及び日本国は、恩讐を越えて、真心から手を握り、世界平和の大道を邁進することを心から念じております。
以上申し上げた通り、原判決は被告等にとってふさわしくないので、何とぞ、公平なる再審を賜ることを、伏してお願いするものであります」
だが、こうした中国人弁護士崔培均等の努力も向井、野田両少尉の訴えも空しく、両少尉は、昭和23年1月28日、南京郊外の雨花台で処刑(銃殺)されました。
ではなぜ、これだけの反証がなされたにもかかわらず、二少尉の死刑判決は覆らなかったのでしょうか。そこでまず、私が前回、この事件の核心として述べたこと、この記事を書いた記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」について検討したいと思います。言うまでもなく、この「百人斬り競争」の記事は事実ではありません。それは、この南京法廷自体がこれを戦闘行為だとは認めていないことで明らかです。
つまり、近代戦においては、「百人斬り競争」のようなことはありえず、だから、中国人は、これを住民・俘虜虐殺事件と見たのです。本多勝一氏等は、こうした主張を「百人斬り競争」論争が不利に陥った後になすようになりましたが、こうした見方は、中国側が南京裁判以前より主張していたのです。
しかし、これは、前回紹介した「上訴申弁書」によって完全に反証されました。というのは、裁判所が「百人斬り競争」を住民・捕虜の虐殺と認定したその唯一の証拠は、浅海記者が書いた東京日日新聞の記事以外にはなかったからです。だから、もし、これが浅海記者の創作つまりフィクションであった事が証明されれば、住民・捕虜虐殺の証拠と見なされたその元になる事実がなくなるのですから、これを住民・捕虜虐殺事件にすり替えることも出来なくなります。故に、浅海記者が、自分の書いた記事について「二少尉の話を事実と思って書いたか否か」が問題になるのです。
だが、この事を知っているのは、浅海記者、向井少尉、野田少尉の三名しかいない。そして、向井少尉と野田少尉は、裁判の中でこれを「無錫において記者と会見した際の食後の冗談であって全然事実ではない」と全面否認している。そこで浅海記者は何と言ったか。彼は、向井少尉の弟に懇請されて南京法廷宛ての証明書に次のように書きました。(本来なら軍事法廷は、彼を召喚して証人尋問すべきだったのですが・・・。)
一、同記事に記載されてある事実は右の両氏より聞き取って記事にしたので、その現場を目撃したことはありません。
二、両氏の行為は決して住民・捕虜等に対する残虐行為ではありません。当時といえども残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることは出来ませんでした。
三、四は省略
もし、この記事作成の事情が二少尉の主張する通りのものであったら、この浅海記者の証明書は、「両氏より聞き取って記事にした」ではなく、戦意高揚記事を書くため、両少尉に架空の武勇伝を語ってもらい、いわゆる”ヤラセ”をやり(山本七平は、無錫で三者談合、常州では両者を佐藤振寿記者の前及び紫金山周辺の安全地帯で鈴木記者の前で”演技”させたと見ている)、それを佐藤記者や鈴木記者の前で自分が実際に取材しているように見せかけて、「百人斬り競争」の記事を書いた」となります。
しかし、浅海記者は、向井猛氏(向井少尉の弟)の願いにもかかわらず、この証明書には、「両氏より聞き取って記事にした、ただし現場を見ていない」としか書きませんでした。ということは、浅海記者は、裁判所が彼の書いた記事を住民・捕虜虐殺があったことの唯一の証拠としているのに、「私はその記事を事実と思って書いたが、直接見ていないので、それが住民・捕虜等に対する残虐行為であるはずはないと思うが、実際に何があったかは知らない」と言ったことになります。
では、本当に浅海記者は、一切の「主観的操作」を加えないで、この記事を作成したのでしょうか。このことを検証したのが山本七平の『私の中の日本軍』で、その結果、この「百人斬り競争」の記事は、先に述べた通り、浅海記者による”ヤラセ”事件であったことが明らかになったのです。
これが事実であれば、三階まで中国人でぎっしり詰まった南京法廷において、戦犯容疑の日本兵の弁護人を務め、前回紹介したような「上訴申弁書」を作成して、その全面無罪を主張したのが中国人弁護士であったのに対して、この日本人新聞記者は、自分の記者生命を守るため、戦意高揚記事作成のために自分に協力してくれた二少尉を見殺しにしたことになります。
では、なぜそう言えるか。もちろん、こうした解釈はこの記者にとって大変不名誉なことですから、その後の論争でも本人はこれを否定しています。また、この「百人斬り競争」については、今日まで様々な観点からの論評・論争がなされています。しかし、私は、この事件の核心は、先に述べた通り、浅海記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」というこの一点に集約できると考えています。
以下、こうした観点に沿って、山本七平が浅海版「百人斬り競争」をフィクションと断定した思考経路をたどってみたいと思います。
○ ベンダサンvs本多論争で、ベンダサンが本多勝一氏の書いた「中国の旅 競う二人の少尉」をフィクションだと断定したのに対し、本多氏は、東京日日新聞の浅海記者が昭和12年末に書いた「百人斬り競争」の新聞記事を証拠として提示した。これに対して、ベンダサンは、この浅海記者の書いた記事も直ちにフィクションだと断定した。しかし、山本は、なぜベンダサンがこれをフィクションと断定できたのか分からず、事務所に来た『諸君』の記者に、「氏はやけに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言った。
○ その後、鈴木明が『南京大虐殺のまぼろし』を書き、向井少尉の未亡人から送られてきた向井少尉の遺書と南京裁判における向井敏明付き弁護人の「上申書」によって、この浅海版「百人斬り競争」が作成された経緯を明らかにした。それによると、浅海記者は、向井少尉と野田少尉に「行軍ばかりで・・・特派員の面目がない」といい、向井少尉が「花嫁を世話してくれないか」と冗談を言ったところ、「貴方があっぱれ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」と言った。これに両少尉が応じたことからこの記事が作成されたという。
○ この記事の発表後、向井、野田両少尉は、記者の創作した「百人斬り競争」という虚報記事によって、南京大虐殺の象徴的な犯人とされ処刑された、との見方が一般化した。しかし、山本は、これは、両少尉が記者に「百人斬り競争」の武勇伝を話し、記者がそれを事実と思って記事にしたのか、それとも記者はこれをフィクションと知りつつ記事にしたのか判らない。結局これは水掛け論に終わらざるを得ないと思った。そこで山本は、その時書いた文藝春秋の記事に”これはもう良心の問題だ”と書いた。
○ ところが、その後の鈴木明の調査で、この両少尉は、最前線で戦闘する歩兵小隊長ではなく、向井少尉は歩兵砲小隊長、野田少尉は大隊副官だった事が明らかになった。山本は、浅海記者が書いた「百人斬り競争」の第一報における野田の会話に「僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」とあるのを、歩兵には何か○官という職務でもあるのか、と思っていたが、まさか、これが副官の「副」を伏字にしたものだとは気づかなかった。
○ そこではじめて、この記事は、職務も指揮系統も全く異なる歩兵砲小隊長と大隊副官を、あたかも同一指揮下にある歩兵小隊長であるかのように見せかけた記事であることが分かった。つまり、前者は砲兵、後者は副官つまり部隊長付の事務官であって、前線に出て戦闘する職務ではない。そこでこの記者は、これが読者に分かると「武勇伝」としての「百人斬り競争」が成り立たなくなるので、野田少尉の「僕は副官をやっている・・」という会話の副官を○官としたのではないかと、山本は思った。となると話は違ってくる。なにしろ山本は軍隊では砲兵であり、また実質的に副官の職務を経験していたからである。
○ そこで、この「百人斬り競争」の記事をよく見ると、同一指揮系統に属する二人の歩兵小隊長が、部下と共に敵陣に切り込み、「百人斬り競争」しているように描かれている。しかし、それが誰の命令によるものかは分からない。まるで二人が「私的盟約」に基づいて兵を動かしているようにも見える。しかし、軍隊ではこのような「命令無視」の戦闘行動は絶対に許されない。もし私兵を動かしたとなれば、直ちに処刑されても仕方ない。
○ つまり、この記事に書かれたような戦闘は軍隊ではあり得ないのである。だから、この記事をもとに中国人が作成したと思われる本多版「百人斬り競争」には、上官が登場し、両少尉に「殺人ゲームをけしかけ」、三度次のような命令を下したことになっている。また「賞を出そう」とは、極めて中国的な「傭兵的」発想ということができる。
「南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった。『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、今度は百五十人が目標だ」。
だが、この記事は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」とは、競争区間も人数もゲームのルールも違っている。ベンダサンは、本多氏がこの記事を本多版「百人斬り」が事実である証拠として持ち出したことに対して次のように言った。「事実」と「語られた事実」は別である。我々は「語られた事実」しか知り得ない。従って、「事実」に肉薄するためには、「語られた事実」をなるべく多く集めて、その相互の矛盾から事実に迫るしかない。ところが本多氏は、この矛盾に満ちた二つの「語られた事実」をそのまま「事実」としていると。
○ なお、近代戦においては、銃や機関銃で武装している敵に、日本刀で切り込むようなことはできない。そのため、本多版「百人斬り競争」では、相手が兵士ではなく中国人となっている。つまり、兵士を相手とした「武勇伝」のはずが、住民・捕虜を対象とした「殺人ゲーム」になっているのである。そこで浅海版の「百人斬り競争」を見てみると、二少尉がその部下と共に敵陣に日本刀で切り込んだようになっているが、敵の武器については何も書かれていない。つまり、それを書くと、銃や機関銃を持った敵に日本刀で切り込んだことになりフィクションであることがばれるので、あえて敵の武器を隠したのである。
○ 山本はこのような分析を経て、この「百人斬り競争」の記事は、記者がで創作したのではないかと考えるようになった。あるいは、この記者は、両少尉の話を信じただけ、つまり彼等の職務が砲兵や副官であることを知らないままにこの記事を書いたのではないかとも考えた。しかし、これについては、佐藤振寿記者の次の証言によって、浅海記者は、「野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長」であることを知っていたことが明らかになった。
佐藤記者が常州に着いた時、「浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んできた」そこで「私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた」「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。・・・(そこで)”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。」(『週刊新潮』昭和47年7月29日号)*この時、佐藤振寿記者は、こんなばかげた話はありえないと思い信用しなかったという。
○ つまり、浅海記者は両少尉の職務を知っていたが、それが紙面に出ては「百人斬り競争」の真実味がなくなるので、両少尉の本当の職務を隠し、あたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのようにしてこの記事を作成したのである。こうした記事作成上の作為は浅海記者にしかできない。つまりこの記事は、浅海記者が単に両少尉の話を聞いたまま記事にしたのではなく、まず浅海記者自身に「百人斬り競争」武勇談の構想があり、それに協力してくれる役者=兵士を探し、つまり「ヤラセ」によってこの記事は作成されたのである。
○ ここに至って山本は、次のような疑問に行き当たった。自分はこれだけの資料を得て、しかも自分がかって砲兵であり、また副官の職も経験したので、彼等の戦場心理も理解でき、それで、ようやく浅海記者の記事がフィクションであることを見抜くことが出来た。しかし、なぜベンダサンはこれらがない中で、この記事をフィクションと断定できたのかと。そこで、ベンダサンに問い合わせをした。暫くして返事が返ってきたが、それは次のようなものであった。
○ この記事は戦場で100人の敵兵をどちらが先に殺すかを競う競技である。競争には必ず審判と勝敗を判定するための基準となるルールが必要である。従って、この競争を戦場でやるためには、戦闘中、審判者が両少尉につきそって走りつつ、何人殺したかを数えなければならない。そして、一方が100人に達した時ストップをかけ、それを相手に知らせ戦闘を中止しなければならない。
しかし、そのような事は戦場では不可能である。記者はこのことに第一報を送った後に気がついた。そこで、競技のルールを、数を限定して時間を争う競技から、時間を限定して数を争う競技に変更する必要に迫られた。そこで、これをできるだけ他に覚られない方法で行うため、第四報(山本は四報あった「百人斬り競争」の記事の中の第二、三報を飛ばしてこれを第二報としている)にある10日の次の会話を両少尉に”ヤラセ”た(山本はこれは浅海記者の創作としている)。
野田 「おいおれは百五だが貴様は?」 向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。
もし、この競争が事実であれば、これはあくまで時間を競う競技だから、野田少尉は向井少尉に、まず100人に達した時間を聞くはずである。しかし、ここでは数を聞いている(と言うことは競争のルールが判っていない?)。また、その後の会話では「いづれが先に百人斬ったかこれは不問」といっている。これは、競技のルールを時間を競う競技から数を競う競技に転換すると同時に、それまでの時間を争うルールを「これは不問とする」という言葉で巧妙にキャンセルしたということである。こんな芸当が戦闘中の兵士に出来るわけがない。
つまり、この「百人斬り競争」は、まず戦場ではあり得ないルールを設定していることからしてフィクション臭いが、以上説明したようなゲーム途中におけるルールの変更を、出来るだけ人に気づかれないように行っていることから見ても、これは誰かが作為的に行ったこととしか考えられず、それが出来るのは浅海記者だけであるから、この「百人斬り競争」の記事は、記者によって創作されたものと断定したのである。
○ これがベンダサンの山本に対する返事だった。(このあたり、ベンダサンは山本との通説が一般的になっている現在、奇妙な感じがしますが、ここでは触れません。)山本は、このような見方ができることに全く気がつかず、ユダヤ人にはこんな論理的な見方が出来るのかと驚いた。そういえば、中国人が語った本多版「百人斬り競争」にも、浅海版にあるような論理的矛盾が見られず、中国人は日本人よりも論理的なのではないかと言っている。
(以下山本の見解も交えた渡邉の見解)
*参照「百人斬り競争」資料
浅海記者が書いた「百人斬り競争」の記事の中で裁判所が問題としたのは、両少尉の会話の内「自白」と見なされた部分である。山本はこれを10日の両少尉の会話のみとしているが、常州での会話も「自白」と見なされ得る。従って、先に紹介した「上訴申弁書」には、「貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その「自白」が事実と符合しないのであるから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできない」旨の申し立てがなされている。
また、戦闘継続中に職務も指揮系統も違う両少尉が10日、11日と2日続けて記者会見に応ずるというのもおかしい。実際の会見は、鈴木二郎記者の証言から11日と思われるが、この日に、上記のルール変更の会話を鈴木記者の前で両少尉にさせることは困難だから、これを10日のこととして、上記の両少尉の会話を創作したのであろう。この作為の跡は「十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった」という、未来のことを過去形で語った叙述にも見ることができる。
また、11日の会話には、向井少尉の鉄兜の唐竹割りや、紫金山残敵あぶり出しの会話がでてくるが、山本は、鉄兜などという言葉は軍では使わないし、また、紫金山残敵あぶり出しというのは毒ガスのことで、軍では絶対の軍事機密であり、これを口に出すとは軍の常識では考えられない。おそらく、この会話は、紫金山の戦闘が終わった後の安全地帯における会話と思われるが、ほとんど酩酊したような精神状態の中で発せられた言葉としか考えられないという。
では、なぜ向井少尉はこのような「軍の常識では考えられない」発言をしたのか。山本はその原因を次のように推測している。向井少尉は丹陽郊外で負傷し、その負傷の持つあらゆる恐怖(負傷による破傷風などで「生きた死体」になること)から解放されたばかりで、その喜び、それに実戦に参加しなかった引け目、その裏返しとしての強がり、これで戦闘は終わったという安堵感(皆これで戦争は終わると思った)、その他手柄意識などの様々の感情が重なって、あのような支離滅裂な会話になったのではないかと。
ところで両少尉は、裁判において、常州での会見も紫金山周辺での会見も否定している。これは、先ほど指摘した通り、ここでなされた会話が、裁判において「自白」と見なされたからである。これらの会話は、実際は浅海記者との談合に基づく「やらせ」であって事実ではない。しかし、これを裁判で「自白ではない」と主張することは極めて困難だから(ここに日本人における「迎合」の問題がある)、これが事実ではない事を主張するためには、この会見自体を否定する他なかったのである。
(つづき)
以上の山本の分析を通して、私は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」は、まずその構想が浅海氏にあり、その協力者を探すため無錫で両少尉に近づき、両少尉の里心(これが軍隊では実に強烈な誘因となったらしい参照:戦場の精神的里心)や手柄意識を、”新聞に載る――それによって無事を親元に知らせることができる”ことでくすぐり、架空の「武勇談」を両少尉に語らせ、それを聞き取る形で戦意高揚の記事を作成した。あわせて、戦場のまっただ中で取材活動をしている?自分をアピールしようとしたのではないかと思いました。
その様子は、先に紹介した「上訴申弁書」に次いで作成された「第二上訴申弁書」に付された、次の野田少尉の「百人斬り競争記事の真相」の内容とほぼ符合します。ただし、常州と紫金山周辺における会見が漏れているのは、前回説明した通り、「やらせ」で喋らされ、あるいは創作された会話が、裁判で「自白」と見なされたためです。また、この「真相」は「第二上訴申弁所」に付したものでしたので、この事実は隠さざるを得なかったのだろうと私は推測します。(参照:「戦場におけるホラ・デマ」)
野田少尉の「百人斬り」新聞記事の真相
〈「被告等は死刑判決により既に死を覚悟しあり。「人の死なんとするや其の言や善し」との古語にある如く、被告等の個人的面子は一切放擲して、新聞記事の真相を発表す。依って中国民及日本国民が嘲笑するとも、之を甘受し、虚報の武勇伝なりしことを世界に謝す。十年以前のことなれば、記憶確実ならざるも、無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一節、左の如きものもありたり。
記者「貴殿等の剣の名は何ですか」
向井「関の孫六です」
野田「無名[銘]です」
記者「斬れますかね」、
向井「さあ未だ斬った経験はありませんが、日本には昔から百人斬とか千人斬とか云ふ武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜を斬ったとか云ふが」
記者「一体、無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」
向井「常に第一線に立ち、戦死さへしなければね」
記者「どうです、無錫から南京まで何人斬れるものか競走[争。以下、同じ]してみたら。記事の特種を探してゐるんですが」
向井「そうですね、無錫附近の戦斗で、向井二〇人、野田一〇人とするか。無錫から常州までの間の戦斗では、向井四〇人、野田三〇人。
無錫から丹陽まで六〇対五〇、
無錫から句容まで九〇対八〇、
無錫から南京までの問の戦斗では、向井野田共に一〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」
野田「そんなことは実行不可能だ。武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
記者「百人斬競走の武勇伝が記事に出たら、花嫁さんが刹[殺]到しますぞ。ハハハ。写真をとりませう」
向井「ちょっと恥づかしいが、記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借[貸]してあげませうか」
記者「記事は一切、記者に任せて下さい」
其の後、被告等は職責上絶対にかゝる百人斬競走の如きは為ざりき。又、其の後、新聞記者とは麒麟門東方までの間、会合する機会無かりき。
したがって常州、丹陽、句容の記事は、記者が無錫の対話を基礎として、虚構創作して発表せるものなり。尚、数字に端数をつけて(例、句容に於て向井八九、野田七八)事実らしく見せかけたるものなり。
野田は麒麟門東方に於て、記者の戦車に搭乗して来るに再会せり。
記者「やあ、よく会ひましたね」
野田「記者さんも御健在でお目出度う」
記者「今まで幾回も打電しましたが、百人斬競走は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに【行替え後、一行判読不可能】
野田「そうですか」
記者「まあ其の中、新聞記事を楽【し】みにして下さい。さよなら」瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。
尚、[当]時該記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として、紫金山に於いて向井野田両人が談笑せる記事、及向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。
右述の如く、被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出でたるは、全く被告等の責任なるも、又記者が目撃せざるにもかかわらず、筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一半の責任あり。
貴国法庭[廷]を煩はし、世人を騒がしたる罪を此処に衷心よりお詫びす。〉
この「百人斬り競争記事の真相」は、死刑判決が12月20日にあり、12月22日に先に紹介した第一回「上訴申弁書」を書き、それでも再審が認められなかったので、最後の望みを託して、「自分の個人的面子は一切放擲」して新聞記事の真相を打ち明けたものです。しかし、残念ながらこれは提出には至らなかったようです。しかし、なんとしても自分らに着せられた住民・捕虜虐殺の汚名だけは晴らしたいと思いこれを後世に残したのです。
なお、この「真相」の末尾には、記者の責任に言及する部分が出てきます。これは、二少尉以外で事実を知る者は浅海記者だけで、彼だけが、この記事が創作であることを証言できる。しかし、氏はついに、この事実を証言せず、「記事は両少尉から聞いたままを書いた、ただし見ていない」としか言いませんでした。つまり、両少尉は浅海記者に裏切られたわけですが、そのことへの不満が、ここでようやく表出したのではないかと思います。俺たちが死ねば「死人に口なし」ということかと・・・。実際、この事実は、本多勝一氏が朝日新聞の「中国の旅」で「百人斬り競争」(s46)を報じ、これをベンダサンがフィクションと断定(s47)するまでは誰も知らなかったのです。この点で本多氏は、一定の役割を果たしたといえるのかも知れませんね。
その後、両少尉は遺書を書き始めました。両氏ともかなりの分量になりますが、その内容には全く驚かざるを得ません。自ら「南京大虐殺」につながる住民・俘虜の「百人斬り競争」の汚名を着せられ死刑判決を受けながら、公判中も堂々たる態度を崩さず、日本及び日本人に対する警鐘を行い、日中両国の友好親善を祈りつつ、なお自分の死を以て今後日中間に怨みを残すなと伝言するなど、戦後生まれの私たちには到底まねの出来ない立派な態度だと思いました。なお遺書は、向井少尉の立派な遺書も沢山ありますが、紙面の都合上、野田少尉(終戦時は大尉)の「日本国民に告ぐ」を紹介します。
(つづき)
次は、野田少尉が、最終的に第二回「上訴申弁書」の提出を諦め、自らの死を覚悟した後に書かれた「日本国民に告ぐ」と題された遺書です。
参照:百人斬り競争」資料 「日本国民に告ぐ」
これを読んで、胸の詰まる思いをしない日本人はいないでしょう。ところで、この両少尉の死が、その他の中国に捕らえられていた日本人戦犯二百六十名の命を救ったかも知れないのです。というのは、この「百人斬り競争」は東京裁判でも審理がなされ、両少尉それに浅海記者も取り調べを受けたのです。その結果、この記事はすべて「伝聞」によるものであるとして、「東京裁判では本裁判は無論のこと、個人を裁く『戦争放棄を無視したC級裁判』としても、このことを立証し有罪に持ち込むことは不可能である」と判断され起訴はされなかったのです。
ところが、両氏を南京事件の容疑者として南京に送れとの中国からの要請があり、マッカーサー総司令部司法部長のカーペンターは「中国では公正な裁判ができるのか、あるいは、少なくとも表面的に、公正な裁判であることを印象づけられるような裁判ができるのか」危惧しましたが、結果的には、先に谷寿夫をB級戦犯容疑者として南京に送った経緯があり、二人を南京に送ることに同意しました。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』P306)
その結果、カーペンターが危惧した通りのことが起こった。当時中国では「国共内戦」が後半期にさしかかっており、国府軍は全東北地方から撤退しつつあり、共産党は国共内戦の最大の山場である「北京戦」に勝利し、北京に入城し、「北京市人民政府」を樹立していました。そこで、カーペンターは谷寿夫、向井、野田両少尉の裁判の様子を聞き、「もうこれ以上は待てない」と思ったのか、中国に捕らえられている日本人戦犯260名を、共産党に引き渡すことなく日本に帰還させたのです。(上掲書322)
つまり、野田、向井両少尉等の裁判が、新聞記事だけを証拠に死刑判決を下すという近代法では考えられない無謀な裁判となったことによって、その他の日本人戦犯260名は、無事日本に召還されたのです。この事実が両少尉にとっていくらかでも慰めになればと思いますが・・・。
一方、この虚報によって両少尉を死に追いやった日本の記者及び新聞社の責任はどうなるでしょうか。山本七平は30年ほど前に書いた『私の中の日本軍』の中で次のように言っています。
「この事件は、今では、中国語圏、英語圏、日本語圏、エスペラント語で事実になっている。しかし、明らかに記事の内容自体は事実ではない。従って、これを事実と報じた人びとは、まずそれを取り消して二人の名誉を回復して欲しい。独裁国ですら、名誉回復と言う事はあるのだから。そして二人の血に責任があると思われる人もしくは社(東京日日新聞現在は毎日新聞=筆者)は、遺族に賠償してほしい。戦犯の遺族として送った戦後三十年はその人々にとって、どれだけの苦難であったろう。
人間には出来ることと出来ないことが確かにある。しかしこれらは、良心とそれをする意志さえあれば、出来ることである。もちろん私に、そういうことを要求する権利はない。これはただ、偶然ではあるが、処刑された多くの無名の人々の傍らにいた一人間のお願いである。」(山本七平ライブラリー『私の中の日本軍』P247)
ご存じの通り、この事件は裁判でも争われました。この裁判のポイントは、「浅海記者は両少尉の話をあくまで事実として聞きこれを記事にした」と認定したことにあります。毎日新聞社も取材は適正に行われたと主張しています。従って、仮に、この「百人斬り競争」が虚偽だったとしても、それは「誤報」であって「虚報」ではないというのです。朝日新聞が、この事件を戦闘行為ではなく「住民・捕虜の虐殺」だったとする書籍を販売していることについては、歴史的事件の「論評」であって言論表現の自由の範囲内としました。
つまり、この「百人斬り競争」事件のポイントは、私が本論の冒頭で述べた通り、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いた話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約されるのです。浅海記者は、東京裁判検察官の尋問に際しても”真実=事実として聞いた”と答えています。はたしてそうか。確かに、この記事は、二少尉が「語り」それを浅海記者が記事にしたものであることは間違いありません。
だが、それは戦場心理を逆用した「ヤラセ」だったのではないか。浅海記者はそれを事実らしく見せるため、わざわざ佐藤振寿記者や鈴木記者を連れてきて「証人」としたのではないか。だが両氏は浅海記者に誘われて両少尉と会見している。もちろん両氏とも、浅海記者が両少尉と無錫で談合した事実を知らない。また佐藤記者は両少尉より”数の勘定はお互いの当番兵を交換して・・・”と聞いたが、第二報の記事では「東日大毎の記者に審判になってもらうよ」となっている。また、鈴木記者は、この競争のルールを「南京まで(=一定の時間内)に100をめどにどちらが多くの敵を斬るか」だと思っている。
ということは、この競争において誰が審判を務めるかということも、その競争のルールが何であるかということも、プレーヤーである両少尉が知らず、佐藤記者は審判を当番兵と聞き、鈴木記者はそのルールを「時間を限定して数を競う」ことと理解していたということです。そして、これらを「知っていた」のは実に浅海記者ただ一人だった。だからルールの変更も出来たのです。これだけのことをやっていて、二少尉の話を「事実として聞き、そのまま記事にした」と言えるでしょうか。自分が創作した記事だからこそ、先に指摘したような「事実」に見せかけるための数々の細工が出来たのではないか。
以上本稿では、この事件を、浅海記者は両少尉の話を「事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という観点に絞って、山本七平やベンダサンの分析を紹介してきました。これによって、それが「ヤラセ」であったことは明白になったと思います。そして、これが架空の武勇談であれば、その後の、これを「住民・捕虜虐殺」事件とする議論は全て霧消します。にもかかわらず、あえてこれを証明しようとする人たちがいますが、それは、冤罪が確定した人物の余罪を探し回るような行為であって、止めはしませんが正気とも思われません。
つまり、この事件についての論争は、山本七平が以上のような論証を行った30年前に、すでに決着していたのです。そもそも裁判は、訴因に基づいて法律的な判断をするだけで、歴史的事実を解明するものではありません。従って、その判決如何に関わらず、毎日新聞社は、この事件の結末について報道機関としての責任があります。また、朝日新聞社も権的な行為は止めるべきです。これは山本七平が言ったように、まさに日本の報道機関の「良心」の問題です。
一刻も早くこの事件に決着を付け、これを、昭和史の謎を解明する一つの手がかりとすると共に、日本人における迎合の問題やマスコミによる虚偽報道、言論空間における空気支配の問題を克服するための”歴史的教訓”とすべきだと思います。(下線部挿入)
以上
資料:「百人斬り競争」資料
なお、以上紹介した山本七平の論証について、これを洞富雄氏によってすでに論破されたもの、とする意見が寄せられていますので、この時の洞氏の論理と、それに対する私の反論を紹介しておきます。これをみていただければ、「百人斬り競争」論争はすでに30年前に決着していることがお分かりいただけると思います。
参考:洞富雄氏の論理を検証する――洞氏は山本七平の論証を論破したか
「百人斬り競争」論争における現在と未来
前回、5回にわたって「百人斬り競争」事件に関する記事を投稿させていただきました。何を今さら、と思われた方もいるかと思います。この論争は、ベンダサンvs本多論争以来の議論の積み重ねがあるし、裁判でも争われたのに、それを無視しているのではないかと・・・。
では、その後、この論争はどのように発展してきたでしょうか。実は、それは、「日本刀の硬性」=日本刀で何人の捕虜等を殺傷できるかなどの、脇道にそれた議論に終始しただけで、論争としてはほとんど進歩がなかった、と私は考えています。
ところで、この「日本刀の硬性」ということについては、秦郁彦氏が「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実(二)」で、山本の「日本刀はバッタバッタと百人斬りができるものではない」という言に対し、無抵抗の捕虜を据えもの斬りする場面を想定外としていることと、成瀬著の『戦ふ日本刀』から都合のよい部分だけ引用している、という二つの理由から、「トリック乃至ミスリーディング」と評しています。
しかし、山本が日本刀の脆弱性について言及したのは、東日の新聞記事の第4報で、両少尉が互いに100を超えたレコードを「さすがに刃こぼれした日本刀を片手に」報告し合い、さらに向井少尉が、記者の前で「俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ」と述べたことを受けてのことでした。
つまり、本当に両少尉が百人斬り競争をしたとすれば、その時の日本刀は、血糊による刃先の腐食、刃こぼれ、刀身の曲がり、目釘のがたつきなどでひどい状態になっていたはずで、記者らはその日本刀を見たのか、それを見れば、「百人斬り競争」が事実であったか否かすぐに分かったはずだ、と言っただけのことです。
そもそも、捕虜等を「据えもの斬り」で殺そうと思えば、何も日本刀を使わなくても、カミソリでも可能です。つまり、なぜここで「日本刀の硬性」が問題になったかといえば、近代戦において日本刀で100人の敵をバッタバッタ殺すようなことはできない、という単純な事実を指摘したに過ぎません。このことは、成瀬の著書によらずとも、本多氏等が持ち出した鵜野晋太郎の証言でも証明されます。
また、「百人斬り競争」裁判も行われました。その判決は、「百人斬り競争」の記事の内容を信じることは出来ないし、その戦闘戦果ははなはだ疑わしいと考えるのが合理的である。しかし、両少尉が新聞報道されることに違和感を持たなかった、つまり、その記事の元となった武勇伝を記者に話したことは事実であるから、これを記者の創作記事であり全くの虚偽であると認めることは出来ない、というものでした。
また、朝日新聞の出版した書籍に、両少尉を「殺人ゲームの実行者」「捕虜虐殺競争の実行者」と名指しする表現があることについては、これは甚だしい名誉毀損表現であるから、控訴人等が受けた精神的障害を賠償する義務がある、としました。ただし、本件摘示事実(捕虜等を「据えもの斬り」したと主張されていること)が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないので、当該書籍の出版差し止め等は認められないとしました。
これは要するに、たとえ両少尉が「ヤラセ」で武勇談を語らされたとしても、あくまで本人が語ったことであって、いわば自白と見なされるということです。従って、これが記者の利益誘導によるものであっても、その対象となった戦場心理(参照「戦場の精神的里心」)は戦後生まれの裁判官には分かりませんから、その結果、両少尉の「自白」が重視され、「ヤラセ」を誘導した記者の責任は問われない、ということになったのです。(南京裁判と同じですね)
また、「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽である事が証明されたわけではない、とする判断については、その論拠となったのは、大なり小なり、この「百人斬り報道」の延長あるいは余波としてなされた両少尉の言動、あるいはそれにまつわる伝聞証言や手紙その他新聞記事等であるようです。しかし、これらはその何れも「百人斬り競争」報道がない限り、生まれないものでした。
ところで、この両少尉の「百人斬り競争」が新聞記事となるについてとった態度には違いがあって、山本七平は、向井少尉が主導的な役割を果たし、野田はそれを茶化しながらも親しい友人のことだから「引き立て役」で付き合う、といった態度だと見ていました。実際、記事にある台詞は、ほとんど向井少尉で、野田少尉の会話は以下のような半ば冗談のようなものでした。
それは、第一報の野田の会話「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」に現れています。というのは、軍隊では人称代名詞を使う場合は必ず「自分は」でなければならず、「ボク、キミ、アナタ、ワタシ」は禁句で、次のような戯れ歌まであったといいます。”ボクといったら撲られた、ワタシといったら撲られた、ホンマに軍隊ヘンなとこ”。
また、この「百人斬り競争」は「前線ではさしたる話題にはならず、なっても新聞の誇大な武勇伝の一つとして軽く受け止められていた」。しかし、数年経つと内外を問わず二人は有名人になってしまい、「二人はどう対応したらよいかとまどったようすが窺える。話題を振られると、小心なところがあった向井は苦い顔で沈黙し、剛胆奔放な野田は開き直って茶化すという正反対の対応に走った例が多」かった、と秦氏は述べています。(秦上掲論文)「百人斬り」裁判で提出された新資料にはこうした両者の性格の違いがよく現れています。
また、これらの資料の中でとりわけ注目を集めたのが、望月五三郎の『私の支那事変』(私家版)における「百人斬り競争」に関する記述でした。ここでは「百人斬り競争」はまるで絵に描いたような住民(=農民)虐殺競争として描かれています。しかし、この本の出版は昭和60年7月1日で、本多氏等が「虐殺説」を唱えはじめた後の出版であり、前後の文脈からして不自然で、資料的価値は全くないと思います。
そもそも、両少尉の所属する第16師団が白茆口に11月15日頃上陸し、無錫から紫金山まで約180キロの間を14日間で、後退する敵と戦闘を交えながら走破した強行軍において、そんな農民=住民虐殺ゲームなどやってる暇などなかったはずです。また、前回も指摘しましたが、この強行軍の中で多忙を極める大隊副官と歩兵砲小隊長が、自らの職務を放棄して、このような残虐な私的競争をやるなどあり得ない話で、また、軍紀上も決して許されなかったと思います。
また、戦後生まれの私たちは、時代劇の影響で人を斬ることが簡単なように思っていますが、実は、「人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮かんできたり、夢に出てきたりするほど、衝撃的なこと」だといいます。「従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、先ず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないもの」なのだそうです。まして、それを武勇談にして新聞に載せるなどありえない話です。
にもかかわらず、裁判所の最終判断が、「百人斬り競争」において示された「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないとしたのは、これらの新資料によるのではないかと思われます。しかし、こうした判断は、前回の論考で述べた通り、東日の「百人斬り競争」記事が「ヤラセ」であったことが証明されれば、自ずと消えて然るべきものです。そして、その証明は30年前の論争で決着したと思っています。
聞くところでは、南京大虐殺記念館を世界遺産として登録申請しようとする動きもあるそうです。その時、その入り口に掲げられた等身大の両少尉の写真は、私たちに何を語りかけるでしょうか(前回紹介した野田少尉の日本国民に向けた遺言も想起すべきだと思います)。その時までに、私たち日本人は、この事件の真相を明らかにしておく必要があると思います。なにしろそれは、戦意高揚をねらった日本の新聞記事により引き起こされた歴史的冤罪事件だったのですから。
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