昨日当ブログをお尋ねいただいた皆様、更新をお休みしたことをお詫び申し上げます。 この場をお借りして、残暑お見舞い申し上げます。 さて、「立秋」も過ぎ、明日は「長崎原爆記念日」ですね。
私は昨日一日、5、6日の二日間の疲れを室温37℃の部屋で、扇風機2台で癒していました。 クーラーは呼吸の妨げになる様で、お客様のときだけ使用しています。
6日の「祈念式典」を始めとする広島の一日は、マスコミ等で皆様のところに漏れなく伝わっているであろうと思い、あえて別な面からお知らせできないかと考えていました。
原爆被爆当日の写真は、数点が残されているのが現状で、それも爆心地から2km以上も離れた御幸橋の救護所等が現存するばかりです。 6日の爆心地は午前8時15分以後、誰一人居ない状態であったであろうことは、容易に推察できます。
そこででふと気づいたのです。 私たちは8月6日がどんな日であったのか、一番理解する方法は、午前8時15分をもって、全ての動くもの、公共交通機関や、タクシー、自家用車を止めて、午後4時救援隊の第一陣が入市した時間まで、全ての人間が徒歩で行動するという一日にしてこそ、「広島の原爆」を理解できるのではないかと思い始めたのです。
その人間が、来賓の総理大臣であろうと、たとえ天皇陛下であろうと、全てのいける人間が、午前8時15分をもって、昭和20年8月6日救護所となった、草津国民学校、己斐国民学校、三篠国民学校、牛田国民学校、段原国民学校・・・・・・・、へ爆心地から歩き、被爆した人々の苦しみを共有してこそ真の「広島平和祈念式典」となるのではなかろうかと思い始めました。
この爆心地近くの「原爆ドーム」の前に立った時、気づいたのです。
なぜ「広島」の「核廃絶運動」が分裂を起こし、統一行動できないのかを目の前にした時、被爆体験者の運動から、非被爆者の運動への転換点で分裂が起きたのではなかろうかと思い始めました。
再び、人間として「核廃絶」に取り組むのならば、同じ体験、同じ苦しみを味わってこそ連帯が生まれるのではないでしょうか。
皆さんは、TVや新聞などの報道を通じて、どの様に感じられましたか。
再来年の、「被爆70周年広島平和祈念式典」は、昭和20年8月6日8時15分の再現こそ、なされるべき「祈念式典」ではなかろうかと、思い始めています。