この遺跡が「日本の古代史」を大きく変える遺跡であることが判明したのは、昭和58年8月のことであった。 先立つこと4ヶ月、「広域農道建設」の事前調査員が一片の弥生式土器片をあぜ道で見つけたことに始まったそうである。
世に言う「荒神谷遺跡」の発見であった。
土器片採取から近辺の調査が行われ、北側斜面から銅剣が発見され、その埋葬された本数が過去、日本国中で発見されていた全ての銅剣の本数を凌ぐ数であることが確定したのは、その年の八月であった。
加えて、その場所から7m東からは、銅矛、銅鐸が出土し、当時同じ遺跡から、三種の青銅器が発見されることはまれで、ましてや大量の出土は始めてであった。
私は発掘状況がTVで放映される度に、是非とも発掘状況を見たいものだと思ったが、ポッケットベルがなってから一時間以内に、市役所の災害対策本部に出頭しなければならない、「緊急時災害協力会社」として指名を受けてその責任者であったので、遠出が出来ない立場にあった。 ただただ、TVで報道されるニュースを見つめていた。
世の中「果報は寝て待て」とのことわざ道理に、その後「加茂岩遺跡」から「中子入り銅鐸」15組、それを先立つこと10年前、斐伊川河川改修に伴う「神原神社古墳」からの景初三年の銘の入った「三角縁神獣鏡」(卑弥呼の持ち帰った鏡と想定されている)の発見と、半径3km以内に存在する多くの古代遺跡は長年私の心の中から離れなかった。
今年初春から、行けるとしたら今年が最後かもしれないと言う気持ちが強くなった。
石綿肺の進行である。遅くなると行けなくなる。 行く為には奥様の力を借りるしかない。 長年乗ってきた2800ccの乗用車と決別する決心をした。 奥様の運転できる軽乗用車でかつ、二時間くらいの連続運転に耐えうる乗り心地がありと言う都合のよい車選びからはじめた。運よく「パジェロミニ」を低価格で手に入れ、奥様の運転で広島から100km以上離れた出雲の地に足を踏み入れた。
「荒神谷遺跡」の入り口。夢叶い銅鐸で作られた車止めの前で東からの日を背に受けて感無量の私である。
右手がこの施設のインホメーション施設でここの係りの女性は、若きころ広島の中心地の「そごう百貨店」で働いていたと、広島からの来訪者を大歓迎してくれた。広島バスセンターが改修され、「広島そごう」が新築され広島の中心地が、八丁堀から紙屋町に移り始めたころである。
私が妻と結婚して三年後であったように思う。彼女は私が当時住んでいた町の、会社の寮に住んでいたそうで、ひと時昔話に花が咲いた。
いかなる理由でこの地に埋設されたのかわ不明であるが、南向きの斜面には何処か「国譲り」の過程が見えてくるようである。
銅剣出土地から東7mから出土した銅鐸と銅矛である。
その内容は詳しくはまた後日報告する。
日本古代史の多くの謎が研究者に投げかけられ、研究者はこの謎に挑み続けている。
「加茂岩倉遺跡」と神原神社古墳」の報告はまた明日いたします。
幾年ぶりかの奥様との「珍道中」が始まった。
明日の珍道中に乞うご期待。